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映画『聖の青春』は、将棋ファンと将棋を知らない人では感想が異なると思った。【ネタバレあり】

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最初に松山ケンイチ主演で『聖の青春』が映画化される、という報に触れた時からずっと楽しみにしていた作品でした。

わたし自身、あまり強くはないですが、趣味ながら将棋を指すこと、プロの対局を見ることが趣味だったので、プロ棋士の生き様にスポットを当てた本作品への期待度は大きかったです。

一足先に原作も読み込みました。

※参考:村山聖の壮絶な人生を綴った『聖の青春』を読んで。羽生善治に並ぶ天才と称された男の生き様に何を思うか?

満を持して、映画『聖の青春』を見てきた感想を書きます。

※ネタバレありです

東出昌大の演技力がずば抜けて素晴らしかった

村山聖は松山ケンイチが、羽生善治は東出昌大が演じていました。

松山ケンイチは、彼本来の体格には程遠いと思われるふっくらとした体つきに変えてきて、本人をして『全身全霊をかけても足りない役』と言うほど、本作への尋常ならざる気合いの入れていました。

わたしは村山聖をリアルタイムで見ていたわけではないので、松山ケンイチ演じる村山聖の仕草・動作がどれほど似ているかは分かりません。

それでも、髪の毛をむしるように掻く癖、少女漫画に没頭する姿、ボソボソとしゃべる感じ、将棋と同じくらい慣れた手つきで麻雀をしている様など、原作で抱いたイメージそのものでした。

しかし、それらを遥かに凌駕するほどに東出昌大演じる羽生善治が際立っていました。

わたしは羽生善治が最も好きな棋士であり、彼の対局、解説、著書は相当数見てきた自負があります。

眉間にシワを寄せながら、メガネを触る動作、こめかみを押さえる仕草、相手を睨みつけるような眼光の鋭さ。どれを取っても羽生善治そのものです。

投了時に深々と礼をする一連の動作は完璧でしたし、『なるほどなるほど』『えぇ、えぇ』と言うように返答に二回繰り返すことや、『同桂のあたりは自信が無かったのですが…』というふうにネガティブな所見から始まりがちな感想戦など、全てが羽生善治です。

何十年と積み重ねられた駒を指す手つきまでは真似することは出来ませんでしたが、何の違和感もなく羽生善治を羽生善治のまま見ることが出来ました。

きっと東出昌大も羽生善治のことを徹底的に研究したのでしょう。ただ単に動作・仕草を真似するだけではなく、羽生善治の魂そのものが乗り移っているように感じられたからです。

東出昌大という俳優の演技力に、ただただ驚嘆しています。『全身全霊をかけても足りない』と松山ケンイチが言う以上のインパクトを受けました。個人的にはアカデミー賞をあげたいくらいです。

『演技力の低い若手俳優ベスト3』『セリフ棒読み』『大根役者』など、散々な評判だった東出昌大ですが、本作でそれまでの評価を全て覆しても良いほどのインパクトです。

わたしは、東出昌大の演技を見るだけでも、本作を観覧する価値が大いにありと、断言します。

しかし、原作と異なるシーンが非常に気になる

特に2つのシーンが気になりました。

1つは、羽生に勝利した村山が、町の食堂で語り合うシーンです。

原作では、村山がまだ関西にいた頃に、羽生と初手合で想像以上の実力差を感じる敗北を喫し、かねてからずっと羽生と話してみたいと思っていたところ、たまたま別の対局で関西に訪れていた羽生をご飯に誘うことが出来た、という流れで二人は食事をすることになります。

それも、村山は『牛丼は吉野家、お好み焼きはみっちゃん、カツ丼は…』と劇中で繰り返すように、ある意味グルメではありますが一般的にはグルメではなく、羽生ほどのスター棋士と一緒に食事をするような気の利いたお店を知るはずがありません。

結局、村山がいつも通っているガード下にあるような街の食堂でご飯を一緒に食べたのでした。この食堂を思われるお店は、劇中に何回か登場してはいました。大阪のおじさん達でガヤガヤしてタバコの煙が充満しているような、敢えてストレートに表現すれば”小汚い店”です。

そのような場所に連れて行く村山という人間の『らしさ』を感じますし、そのような場所でも羽生は嫌な顔せず、村山の問いかけに答える。という二人の姿に大きな意味があると思っていたので、改変が加えられたことは残念でした。


もう1つは、二人の最後の対局となったシーンです。

劇中では『棋聖戦』と書いてあったように見えました。少なくとも千駄ヶ谷の将棋会館の一室を使って、夕食休憩があって、深夜まで及ぶような対局は、タイトル戦だと考えられます。

村山が患ったネフローゼとは、一年中体調が良いことは無く、時には全く動けなくなるほどに消耗する重病です。ゆえに、重要な対局でも棄権せざるを得ない時が多々ありました。

タイトル戦に挑戦するということは、予選リーグを勝ち、トーナメントを勝ち抜き、ようやくタイトル保持者に挑戦することが可能となります。ある意味何回か負けることが出来る(棄権出来る)順位戦とは異なる困難を伴うことです。

実際、村山が生涯で唯一タイトル戦に挑戦することが出来たのは、1992年の谷川浩司との王将戦です。

谷川は、村山が名人を志すキッカケとなった人物です。谷川との大一番は、それまでの村山の棋士人生で最も重要な対局でした。

王将戦という正真正銘の真剣勝負の場で、名人位に4度就いたことのある谷川浩司と対局することは、名人になることが夢である村山にとって、極めて重要な意味を持っています。

普段は、部屋に食べ終えた弁当の空き箱や、ゴミで溢れかえっていて、服装にも無頓着で、スーツもぐちゃぐちゃといった村山が、ここ大一番で紋付袴を召して対局に挑むという、象徴的なシーンなのです。

実際は、谷川王位に4連敗を喫し、圧倒的な力を痛感することになります。ここから、村山の棋士としての凄みが一層増していくという、ターニングポイントになったとも言えましょう。

さらにタイトル戦は少なくとも3戦、多いと7戦することになります。

そのため、劇中では羽生との対局をタイトル戦に仕上げてしまうと、物語の意味が全く変わってしまいます。村山元気じゃん。羽生といっぱい対局してるじゃん。となってしまうからです。

実際の村山と羽生は、順位戦、竜王戦予選、NHK将棋トーナメント決勝など、ピンポイントで重要な場面で対局していました。一発勝負に賭ける、村山の意気込みたるや、常軌を逸するものであったと想像に難くないです。だからこそ、通算成績で6勝8敗という、全盛期の羽生を相手に互角と言って良い対戦成績を残すことが出来たのです。

また、劇中での羽生と村山の最後の対局の元となった対局は、1998年のNHK将棋トーナメント決勝戦です。

劇中でもNHKトーナメント決勝戦の指し手を完全に再現しています。羽生を追い詰め村山優勢のまま、あと一歩でNHK将棋トーナメントのタイトル獲得まで迫っていたところで、まさかの落手をしたところも全く同じです。

ですが、早指しのNHK将棋トーナメントの終盤のねじり合いでの落手と、1日もしくは2日を使うタイトル戦の終盤での落手とでは、また重みと意味合いが変わってきます。

わたしは、羽生との対局を安易にタイトル戦にしてしまったことは、限りなく悪手に思えます。NHK将棋トーナメントでも、決勝まで進出したことは凄まじいことなので、NHK将棋トーナメントのままで良かったのになと思います。NHK将棋トーナメントの名前が使えないなら、『全日本将棋トーナメント』みたいな、それとなく早指し棋戦を分かるようなタイトル戦名にすれば良かったのになと思います。

エンドロールの最後には『本作品はフィクションであり、事実と異なる表現があります』とありましたが、『聖の青春』を名乗るなら、村山に関わる部分は原作通りにして欲しいと強く思いました。

とはいえ、将棋を知らない人にこそ見てもらいたい作品だ

これらの点は、将棋ファンだからこそ気になる問題であり、将棋を知らない人にとっては村山聖という人間が全力で生きる姿に、何か感じるものがあると思います。

わたしも原作を読んだときは、言葉にすると10000文字必要なくらい心を打たれました。

だからこそ、映画を見て、原作を読んでない人には、強く原作を読むことをオススメします。

映画も非常に良い作品でしたが、原作は映画の100倍は面白いです。圧倒的名書ですので。

魂の棋譜を感じ取るためには、棋譜並べが一番でしょう。

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プロ棋士が、一体どれほど過酷な職業であるか、タイトル戦の重みについて書いています。『聖の青春』を見る・読むにあたっては、この記事を読んでから見て欲しいと思います。

原作『聖の青春』を読んだときの感想です。

劇中では「コンピュータ将棋が人間に勝つことはあるか?」という問いに『無い』と書いていた村山でしたが、今ではプロを凌ぐほどの実力をつけています。今行われている叡王戦で羽生は負けてしまいましたが、羽生を倒して名人になった佐藤天彦九段と、コンピュータ将棋を研究して育ってプロになった千田翔太五段との決勝戦にも注目ですね。