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無名のプロ野球選手だったジョー・マドンがワールドシリーズを制覇するまでの軌跡

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現役時代は大した成績を残していないにもかかわらず、メジャーリーグの監督として大成功している人が多いことが分かりました。

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ジョー・マドンは、現役時代はメジャー出場の全くない選手でした。

タンパベイ・レイズで名監督と呼ばれるほどの実績を残し、シカゴ・カブスでついにワールドシリーズを制覇した監督になりました。

アメリカンドリームだとしても凄まじいキャリアの過程に興味が沸きます。

現役時代の動向

1975年、現在のロサンゼルス・エンゼルスに入団します。

傘下のマイナーリーグでは、最高でシングルA級でプレーするにとどまります。

1976年(22歳)シングルA、50試合(38)、48安打、0HR、22打点、打率.294
1977年(23歳)シングルA、58試合(44)、45安打、3HR、24打点、打率.250
1978年(24歳)シングルA、42試合(36)、29安打、2HR、16打点、打率.261
1979年(25歳)シングルA、20試合(11)、15安打、0HR、7打点、打率.250

という成績を残しました。

試合数の後の( )内の数字は、捕手として守備位置についた試合数です。

捕手以外としての出場もちらほらあり、代打での出場も多かったことが分かります。

ちなみに捕手としての通算守備率は.972です。送球ミス、パスボールが多かったことを示すデータです。

つまり、捕手としての能力は疑問詞され、打力を期待して代打や他のポジションで出場するも通算5HRとという非力さも相まって、捕手・打者どちらも可能性が薄いと判断され4年で引退に追い込まれたのだと想像出来ます。

現役引退後の進路

1980年はスカウトとして活動しました。

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翌年1981年からルーキー級*1のIdaho Fallsの監督に就任します。以降の成績は以下のとおりです。

1981年 Rk級 Idaho Falls 27勝43敗
1982年 A-級 Salem 34勝26敗
1983年 A-級 Salem 31勝39敗
1984年 A級 Peoria 66勝73敗
1985年 AA級 Midland 59勝77敗
1986年 AA級 Midland 62勝71敗

マイナーリーグの監督は通算6期務めました。しかし、一度も勝ち越したシーズンはなく、合計279勝339敗という成績でした。

これは1981年から1986年にマイナー監督を努めていた監督の中で最も負けている記録です。

マイナーリーグの監督としても、大きな実績を上げることは出来ませんでした。

マイナーリーグ監督時代に指導した選手たちのその後

マイナーリーグ監督としての実績は、単純に勝ち負けで判断出来るものではないと思います。

指導した選手たちが、後のメジャーリーガーへと巣立って行ったかどうかが重要だと思います。

そこで、マドンがマイナーリーグ監督を務めた1981〜1986年の教え子たちで、後にメジャーリーグに昇格を果たした選手が何名いるのか調べてみました。

1981年 ルーキー級 34名中4名
1982年 A-級32名中5名
1983年 A-級35名中2名
1984年 A級 42名中4名
1985年 AA級 41名中11名
1986年 AA級 38名中16名

この中には、1981年にルーキー級に所属していた選手が、年々昇格していって、マドンの下でプレーしている選手も含まれています。

単純に足した数字がメジャーリーガーになった人数ではありません。年度ごとに何人中何人という率を見て考える方がいいでしょう。

ちなみにマドンが退任した1987年以降のAA級Midlandのメジャーリーガー輩出率を調べましたが、マドンが率いていた頃とさほどの差がなかったです。

また、1987年以降にトップチームであるエンゼルスがどれくらい勝っていたかも重要です。マイナー組織で育成した選手が活躍している、または良いトレード素材となってトップチーム強化に貢献したかどうかを判断出来ます。

しかし、エンゼルスは、1986年に地区1位になったが、87年以降は2002年にワイルドカードを制して、ワールドシリーズ制覇を果たすまで長期間低迷していました。

よって、マイナー組織の育成によってチームに貢献したとは言いづらいでしょう。もちろんマドン一人の責任ではありませんし、チーム全体の問題でしょう。

ただ、このことからマドンの育成手腕が高くて、チームから評価されていた、とは言えないことは分かると思います。ストレートに言えば、凡庸なコーチの一人だったと思います。

その後マイナーリーグのコーチを務める

1987年から1993年まで、マイナーリーグの巡回コーチを務めます。

そして、1994年についにメジャーリーグ・エンゼルスのコーチへと昇格します。

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メジャーでは、一塁コーチ・ベンチコーチを主に務めていました。

1996年、1999年には監督代行として、20数試合チームを率いていました。監督が出場停止になった際の代理監督も、ジョー・マドンが務めていました。

2000年、マイク・ソーシアがエンゼルス監督に就任

1990年代のエンゼルスはプレーオフ出場はゼロと、低迷していました。

2000年に現在も監督を務めるマイク・ソーシアが就任します。

ソーシア率いるエンゼルスは2002年にプレーオフを制してリーグ優勝し、ワールドシリーズ制覇も果たします。この年のワールドシリーズでは、対戦チームであるサンフランシスコ・ジャイアンツに所属する新庄剛志も出場していました。

その後も2004年、2005年とプレーオフ進出し、ソーシア就任以前とくらべて観客動員数もおよそ2倍になるほどの人気強豪チームへと変貌を遂げました。

この時、ソーシアの右腕としてベンチコーチを務めていたのがジョー・マドンです。

名将ソーシアの下で学んだマドンに狙いをつけたのが、タンパベイ・デビルレイズでした。

2006年、マドンはタンパベイ・デビルレイズ監督に就任

1998年に新規参入したタンパベイ・デビルレイズは超弱小チームでした。

2004年に地区4位になったのが最高順位で、その他のシーズンは全て最下位に沈んでいました。

2006年に28歳のアンドリュー・フリードマンという元銀行マンがGMに就任し、マドンを招聘します。

フリードマンとマドンが最初に行ったことは、チームの核となる選手を育成することです。

2006年に101敗、2007年に96敗と大きく負け越しますが、後にチームのコアメンバーとなるエヴァン・ロンゴリア、スコット・カズミアー、ジェームス・シールズ、BJ・アップトンなど育成します。

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そして2008年、チーム名を「デビルレイズ」から「レイズ」に変え、「レイズ旋風」と呼ばれる大躍進を遂げます。

97勝65敗の好成績を上げ、ワールドシリーズに進出。WSでは、フィラデルフィア・フィリーズに1勝4敗で敗退します。

2009年以降5年間で3度のプレーオフ進出を果たし、毎年優勝候補の一角にあげられるほどの強豪チームとなる礎を築いたのでした。

2015年からシカゴ・カブス監督に就任

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レイズでの手腕を認められ、本気でワールドシリーズ制覇を狙っているシカゴ・カブス監督に就任します。

カブスはレイズと違って、シカゴという巨大マーケットを本拠地とし、潤沢な予算を使って勝ちに来ているシーズンです。

その中で、マドンに声をかけるということは、それだけマドンの手腕を高く評価しているということでしょう。

2015年は、地区3位ながらも97勝をあげ、プレーオフ進出を果たします。

2016年シーズンは、メジャー最多の103勝をあげ、プレーオフを勝ち抜き、ワールドシリーズに進出しました。

そして、『ヤギの呪い』を乗り越え、108年ぶりのワールドシリーズ制覇を果たしました。

マドンはなぜメジャーリーグ監督になれたのか?

マイナーリーグ監督でさしたる実績をあげられなかったにもかかわらず、メジャーリーグ監督になり、最優秀監督賞に輝くほどの名将になり得たのはなぜでしょうか?

それは監督の人柄にあると思います。

いくつかネット上の記事を引用します。

選手との対話を重視し、コミュニケーションを決して怠らない。チームをリラックスさせるためにクラブハウスにオウム、ペンギン、ヘビを持ち込んだり、DJを連れてきて音楽を鳴らしたり。ラテン系音楽のバンドを招待してコンサートを行ったこともあった。
(低予算レイズ、奇跡の好成績 光る知将マドンの手腕: 日本経済新聞より)

すでにいろんな知識を持っているけど常に何かを『学ぼう』『取り入れよう』とする柔軟性がある。正直でいつも明るくハッピー。そしてさりげない。
(レイズ時代のマドン監督との出会いで人生変わった | 東スポのMLBに関するニュースを掲載より)

マドンほど、若い選手の力を伸ばしたり、他のチームで埋もれていた選手の才能を開花させたりすることが上手な監督はいない。正直かつ外向的な性格で選手とのコミュニケーション・信頼を得ることに長けている上、よいと思ったことはすぐ実行に移す積極的な性格が、レイズの大変身に貢献したことは疑いを入れない。
(李啓充 MLBコラム : ジョー・マドン 名監督が挑む難事業より)

現役時代にも、マイナー監督時代にも、実績のないマドンは、驕り高ぶることは決してなかったと思います。

実直さ、素直さ、そして外交的な性格がまわりの選手やフロント陣から気に入られていたのでしょう。

でなければ、マイナー監督で成果を出せなかった人間に、コーチのポジションを与え、現役時代を含む31年間にわたってエンゼルスに所属することは不可能でしょう。

また、マドンは他のチームに先駆けて、極端な守備シフトを導入するなど、常識にとらわれない先見性・実行力の持ち主でした。

フリードマンGMの手腕も大きいと思いますが、素直に良いと思われることを実行する力が大事なことは、ビッグデータベースボールにも書いてあります。

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パイレーツのハードル監督もそうですが、選手と密なコミュニケーションを取れて、フロントの意向と現場の状況をうまく合わせて采配を振るえる監督が名将に必要な要素だとわかりました。

選手と良い距離感を保つ上では、逆に過去に実績がない方がプラスに働いているのかもしれませんね。

今回はジョー・マドン監督について調べました。

また時間があるときに、マドン以外の監督のキャリアパスについて調べてみたいと思います。

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*1:マイナー組織で一番下のクラス