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劇症型溶血性レンサ球菌感染症にかかった全記録

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ちょうど1年くらい前に、巷を賑わせていた「劇症型溶血性レンサ球菌感染症」「劇症型溶連菌感染症」「STSS」「人喰いバクテリア」などと呼ばれる感染症に罹患し、なんの誇張表現もなく死にかけたのですが、無事に生還したお話を、記憶が薄れていかないうちにまとめて、記録しておこうという主旨です。

恐ろしく長い文章になるので、本当に暇な人だけ読んでみてください!

※筆者に医療の知識は皆無なので間違ったことがたくさん書いてあると思います。個人の日記と思って読んでください。

※その時々での意識レベル(頭がどれくらい働いているかの感覚)、身体のコンディション(どれだけ自由に身体を動かせるか)を10段階で書いていきます。10に近いほど良好、0に近いほど悪いという意味合いで。

発症前(意識10、身体10)

普段から膝の裏に湿疹ができやすく、痒みを感じることが多かったのですが、発症前は膝裏に痒みより痛みが強くなっていました。なにか変な虫に刺されたのか、それともその1週間程度前に息子が水ぼうそうにかかっていたので、水ぼうそうが感染ったのか、など可能性は案じましたが、我慢できないほどの痛みではありません。

そんなものが「劇症型溶連菌感染症」の前触れだなんて知る由もなく、また皮膚科等医療機関が開いていない年末年始の時期だったこともあり、特に何もせずに過ごしていました。膝裏に対して何もせずという意味で、暇だったので「ファイアーエムブレム風花雪月」を購入して、能登地震のニュースを見ながら、「いやー、大変なことが大変な時期に起きてしまったなあ。。。」など思いながら、ゲームしてました。

入院1日前(意識6〜7、身体6〜7)

深夜に猛烈な下痢と吐き気と発熱に襲われ、一晩中トイレで過ごす羽目に。過去に経験したノロウイルスに症状が酷似していました。過去の経験からノロウイルスは直接的な治療法はなく、基本的に症状が収まるまで我慢するしかないと思って耐えていました。胃にも腸にも何もない状態で催す吐き気が結構しんどいので、あえて水を飲んでそれを吐くほうが楽に過ごせるというライフハックを得ました。

ただ、症状は下痢と吐き気だけではなく、心拍数が120回/分程度と高止まりしていたこと、膝裏の痛みが我慢できないほどに強くなっていることも気になります。

特に膝裏は我慢できないほど痛いので、ここで初めて医療機関に行こうと、年末年始でもやっている医療機関を探しましたが、かなり頭もボーッとしており、自力で外出する気力はありません。グダグダと自宅のソファに寝転びながら、無為な時間を過ごします。ファイアーエムブレムやる元気も全くありません。

救急搬送直前(意識1〜2、身体5〜6)

妻の呼びかけに、訳のわからない返答をしていたようで、これはヤバいと思った妻が救急車を呼んでくれました。

頭がおかしくなっていた私は、「救急車が来るなら、外に行かねば」と思い、なぜか一人で外出。寒空の下、救急車が来るのを待ちます。

救急車がすでに来ていて、スルーされたら大変だ!と思ったのか、近くで配達をしていたと思われるバンに向かって歩き、運転手の業者の人に「すみません」と声をかけます。『何でしょうか?』と言われますが、何で声をかけたか自分にはわかりません。配達員の方から『あ、もう大丈夫ですか?仕事あるので。。』と明らかな不審者扱いをされたこと、そしてこの人は救急隊員ではないし、救急車ではなく配達用のバンであることもわかりましたが、どうすればいいかはわかりません。

というように、意味不明な行動をとるくらいには意識レベルが低下しており、ややしばらくして救急車が到着。救急隊員から『いま何月ですか?』という、元旦に発生した能登地震の直後であり、どう考えても1月なのに長考したあげく「3月ですか?」と回答してしまい、『これはまずい』と救急隊員が呟いたくらいを最後に、意識と記憶が途切れます。

次に明確に記憶が戻ったのは5日後のことですが、時系列に振り返りたいので、後から教えてもらったことや診療明細などからわかる範囲で、救急搬送直後からの状況を書いていきます。

緊急オペ(意識0、身体0)

救急車が向かった先は、近所の大学病院です。特に救急救命センターが充実しており、年末年始だというのに、内科・外科・整形・麻酔など各分野のエキスパートに加えて、各種医療機材も揃いに揃っている救急救命を行うのに最高の医療機関です。まず、このような素晴らしい病院のそばに住んでいた幸運と、搬送先に選んでもらえたことが幸運だなと後に思いました。

搬送され、ICUのオペ室で最初に血液検査を行い、劇症型溶連菌感染症に罹患していることはすぐわかったようです。

一方で劇症型溶連菌感染症によって、敗血症ショック状態に陥っており、血圧が上30というくらい異常に低く、まともに血圧測定ができないほどに低下していました。

このままだと死んでしまうので、生命維持のためにECMOと呼ばれる人工心肺を挿入することになります。この際、主治医から『人工心肺いれて、口に管をいれます。しばらく喋ることができなくなりますが、いいですか?』というような問いかけに対して、ちゃんと医師の目を見て「はい、わかりました」と私は返したそうですが、私には全く記憶に残っていません。

ともかく、コロナ禍で大きな話題を呼んだECMOを2台投入し、太ももの付け根あたりから太い管を身体に挿して、血管に繋ぐことで生命維持を図ったようです。

身体を蝕む溶連菌に対しては、点滴により抗菌剤を投入してウイルスを駆除する手法が取られました。抗菌薬にはいろいろあるそうですが、ペニシリン系の抗菌薬に対して、アレルギー反応を見せたようで、肌が真っ赤に腫れてしまったみたいです。これからは、アレルギーの有無の欄に【花粉、ペニシリン】と書かねばと思いました。

緊急オペその2(意識0、身体0)

他にも重大な問題が2つありました。

1つは膝裏の症状です。どうやら膝裏で劇症型溶連菌が活発に活動していたようで、膝裏の皮膚が広範囲にわたって壊死していました。お医者さんが記録に残していた写真を見せてもらい、内出血のような赤黒いシミが膝裏に広がっていたことを後日知ります。

というわけで、壊死した部位を切除します。医療明細には【デブリードマン(100平方センチ以上)】みたいな記述があり、実際に10センチ四方程度の皮膚を失うことになりました。

しかし、皮膚だけで済んだともいえます。溶連菌の進行が早かったり、病院への搬送が遅れていたら、普通に四肢切断に至っていたことでしょう。後にこの感染症について調べると、基本的に死ぬか四肢切断する病気といっても過言ではないほどの重大な感染症なのです。皮膚の切除だけで済んだことは、どう考えても奇跡的な幸運です。

とはいえ、皮膚を切除したため、膝裏に大きな穴が開いて筋肉などの皮下組織が露出しているような状況です。これも写真で見ましたが、膝裏に突然ブラックホールが現れたようなドス黒い穴がぽっかりそこに存在していました。穴があいたままでは、生活できないので、これを何とかしないといけないという問題が残りました。

2つ目の問題は腎機能の喪失です。進行が早い劇症型溶連菌感染症は、敗血症性ショックを引き起こし、それが各器官の機能低下を招きます。致死率3割や5割ともいわれる劇症型溶連菌感染症による直接的な死亡要因でもあります。

私の場合は腎臓がやられてしまい、人工心肺の投入や抗菌薬による治療で、いったん一命をとりとめますが、腎臓が医学的には「不能」の状態に陥ってしまい、成人男性なら1500ml/日程度出るはずの尿が10ml/日くらいしか排出されない。といった「急性腎不全」に陥りました。体内に溜まった水分の除去、また血液内に溜まった老廃物を除去するため、人工透析が欠かせない身体になっていました。

入院1〜2日目(意識0、身体0)

一命をとりとめたとはいえ、容態が急変して死ぬことも全然あり得る状況だったようです。主治医は私の家族に対して、「五分五分」「今後一週間が山場」など伝えていたとのこと。

当の本人(私)は、そんなことを知る由もなく、意識も記憶も全くない状態です。意識がないというよりは、薬を投与して意図的に昏睡状態にしていたようです。身体に様々な管が繋がっている状態であるため、突然暴れたりして管が抜けると一大事なわけで、それを防ぐために昏睡状態にしていた、というようなことを後に聞きました。

他に後からわかったこととしては、ペニシリン系抗菌薬によるアレルギー反応によって生じた湿疹等を抑えるための塗り薬(オリーブオイルや軟膏)が大量に処方されていたので、そういった肌へのケアも行われていたのかな、といったことくらいです。

入院3〜4日目(意識0、身体0)

多少心肺機能が回復したためかどうかはわかりませんが、これくらいの時期に人工心肺(ECMO)から離脱できました。相変わらず意識はないので、人工呼吸器は引き続き着用しています。人工呼吸器は、直接肺に空気を送って呼吸を補助する装置です。

人工透析もこの頃はほぼ毎日くらいの高頻度で行っていたようですが、もちろん記憶にございません。

入院5日目(意識1、身体1)

私の記憶の限りでは、最初に意識が戻ったのは入院5日目のことです。面会に来ていた妻の姿と、全く見覚えのない天井の景色、そしてこの日が1月7日であることを知り、5日間も記憶が飛んでいるのかあと、しみじみと思ったくらいです。

人工呼吸器がついているので喋れませんし、筆談しようにもほとんど身体を動かせず文字も書けないので、こちらから何かを伝えることはできません。

とはいえ、感覚的には目が覚めた気分で、ここからは記憶(といっても後述のように現実の記憶なのか相当あやしいもの)が残っています。

入院5〜7日目(意識1〜2、身体1)

永遠に夢を見続けているような、いわゆるせん妄状態にあったのかなと思います。これも後にお医者さんに言われたことですが、
・昏睡状態から脱しても、引き続き活動レベルが下がる薬を投与しているため、昼間でも強い眠気が残る
・痛み止めの薬の副作用により悪夢や幻覚を見る
・そういった薬が細胞に残って、せん妄やPTSDみたいな症状が残ることもある
とのことで、ずっと現実との境が分からない夢みたいな幻覚を見ていました。

具体的には、
・自分の寝ているベッドにパソコンが備え付けてあって、シムシティみたいな街を作るシミュレーターを動かしていた
・それはゲームではなく労働であり、シミュレーター上での出来事が現実に反映される仕組み
・自分と同じような重症な患者がシミュレーター上で労働を行う(身体は致命傷を負っていても、脳は動くからみたいな雰囲気を感じていた)
・自分は短期間でトッププレイヤーとなって、シミュレーター上で物凄い成果を出していた
・その成果があまりにも凄すぎて、現実の上司に早く報告したいと思っていた(しかし、連絡方法がわからないなあとずっと思っていた)
とか、こんな感じでした。

虚実の境目を彷徨っていたんだなと思います。

入院7日目【日中】(意識2→5、身体3)

人工呼吸器から離脱する処置が行われました。

人工呼吸器をつけると、口からものを食べたり、薬や水分を飲んだりすることもできません。必要な栄養や水分は基本的に点滴から摂取するのですが、このときは鼻から管を通して栄養のあるジェル的なものを直接胃に流し込むような装置もついていました。

したがって、人工呼吸器を外す際に口を通っている管と鼻を通っている管の2本を外します。そのとき、鼻の粘膜?奥部?に管が強く付着していたようで、外した際に鼻血が止まらない状況に陥りました。(おぼろげながら、鼻血を止めようとめっちゃ格闘しているようなやり取りを聞いていた記憶が残っていますし、向こう3ヶ月くらいにわたって鼻の奥からかさぶたのような血の塊が出続ける症状に悩まされることになりました)

綿球を詰め込むような形で止血を行い、1週間ぶりに喋ること、口から水を飲むこと、そして口から栄養摂取をすることができました。
術後最初の食事はヨーグルト、ゼリー、ヤクルトみたいな乳酸菌飲料の3品だったかと思います。後に一般病棟での食事が始まってから一度もヤクルトみたいな乳酸菌飲料が出てこなかったので、このとき本当にヤクルトを飲んだのかはあまり自信がないのですが、妻が言うにはヨーグルトとゼリーは私自身のリクエストにより提供されたようなのでこの2品については事実なのでしょう。

このとき食べたヨーグルトとヤクルトの味(後者は本当に飲んでいたかは定かではない)が美味しすぎて、入院中だけでなく退院後もしばらく乳製品や乳飲料を欲し続ける身体になりました。

喋れるようになったことで、ようやく自分から発信するコミュニケーションが可能となり、まずいま入院している場所はどこかと聞きました。入院7日目にして、初めて自分がいる場所を知ります。

食事をとったあとは特にやることもなく、やはり継続して眠気もあるため虚ろ虚ろしていたと思います。このときに
・報知プロ野球チャンネルに出演している記者から快気祝いとしてランチのお誘いを受けた
・霜降り明星の粗品が病室近くでやっているイベントでMCをしている(大学病院なので大学の文化祭でのイベントに来ているようなイメージです)
・粗品の声とMCのアシスタントをしているであろう女性の声が3時間くらいずっと壁越しに聞こえてくる
みたいな幻覚を見ました。報知プロ野球チャンネルも粗品のYouTubeも日頃からよく見ていたので、記憶が錯綜しているような状態だったのでしょう。

ただ、当時の私には全く幻覚には思えず、特に粗品が病院の近くでイベントやっていることがあまりにも気になりすぎて看護師さんに「今日、近くにお笑い芸人の粗品が来てませんでしたか?」とリアルに聞いてしまったほどです。なお、看護師さんからは「いえ、来てませんよ」とだけ言われました。(絶対、カルテに幻覚アリとか書かれてますよね)

虚実の区別がつかない私でも、恥ずかしいこと聞いてしまった。。。という感覚を抱きましたが、その数十分後くらいに、3列くらい離れた場所に入院している別の患者さん(90歳くらいのおばあちゃん)が『近くに芸能人来ていますか?』と看護師さんに聞いていたので、「ああ同志がいた。ICUでは、よくあることなんだろうな」と心の中でとても共感し、気持ちが落ち着きました。

入院7日目【夜間前半】(意識7〜8、身体3)

意識レベルが下がる薬が切れてきたためか、だいぶ目が覚めてきて、自分の病床のまわりの様子を視認できるようになり、自分の置かれた状況を客観的に知りました。

ナースコールを使って、能動的に看護師さんを呼んだり、可動式ベッドのコントローラを操作して足元や上半身の角度を変えることも、できるようになります。

口から水を飲むこともできるようになったのですが、まだ腎機能は全く回復しておらず、摂取できる水分量に制限があります。ガブガブ飲むことはできないので、冷たい水をちびちび飲んで喉を潤すことが、このときの最大の贅沢でした。

このように順調に回復するのかなと思いきや、夜になってから心拍数が高くなる感覚があり、徐々に息苦しさを覚えるようになりました。

看護師さんやお医者さんが言うにはバイタルの数値(心拍、血中酸素濃度など)は特に問題なく、息苦しさを訴えてもひたすら様子見をされました。

様子見されている間、先ほど『近くに芸能人来ていますか?』と聞いていたおばあちゃんがおかしくなり、
婆『ここはどこですか?』
看「◯◯病院ですよ」
婆『私が着ていた服はどこにあるの?』
看「息子さんたちがいらして家に持って帰りましたよ」
婆『そんなはずがない。私を騙しているな』『病院につれていけなんて言った覚えはない』『おかしい、警察を呼べ』
などと、揉めています。

看護師さんは努めて冷静に搬送当時の病状(元々病気を患っていて、血を吐いて倒れた、みたいな感じで緊急性が非常に高かった様子)など伝えながら、治療が必要だから一晩泊まってねと諭し続けますが、おばあちゃんは全く聞き入れません。

別の年長の看護師さんが話すと、ようやく落ち着いて『騒いで悪かったね』とか言っていました。

中途半端に意識があるとああなるのかあ、などと他人事に思いながら(まったく他人事ではない)、自分ごととしては息苦しさは増すばかりでいよいよ苦しくなります。

入院7日目【夜間中盤】(意識7〜8、身体2)

そうこうしていると、突然左膝裏の患部から出血が確認されました。包帯巻きでぐるぐるにされている状態なのに、貫通するほどの出血量です。

ただならぬ事態に即座に医師による処置が開始されます。

患部に何をしたのか、よく分からないのですが、恐らく縫合部を縫い直したとかその類の処置だと思います。こうした軽めの処置を行う場合、患部は神経丸出しみたいな状況なので、痛覚神経を鈍感にさせる痛み止めみたいな薬剤を投与されます。

「入院5〜7日目」の項目でも書きましたが、この痛み止めの薬は幻覚や悪夢を見る副作用があります。意識レベルが回復した状態だと、この幻覚や悪夢をハッキリと認識することができ、言葉では形容できないような異世界に自分が飛んでいき、連続した幻覚を見続けるような感覚に襲われました。恐怖感が強いわけではなく、時々気持ちよささえ感じるような不思議な感覚でした。
わかる人にだけわかればいいのですが、Netflixの『サンクチュアリ -聖域-』で、主人公がライバル力士に連続張り手で病院送りになった直後の回の冒頭で、実はライバル力士を倒しており、周りの人たちからいろんな祝福をされるみたいな幻覚を見ている描写があるのですが、その場面が連続して変化していく映像が、私が見た幻覚と非常に似ていました。AIが作り出したような連続性のある意味不明な映像・世界に溺れているようなイメージです。

そして、とても不思議なことなのですが、この意味不明な幻覚を見るのは、このときが初めてではないと強く思いました。デジャブです。でもそれをいつどこで見たのか全く思い出せません。

今回の入院以前に、こういう派手な入院や治療経験はなく、頬骨を骨折したときも切り傷を縫うために部分麻酔をした程度だったはずで、このレベルの痛み止めを投与された経験はこれまで無かったはずです。

となると、この入院7日目以前に痛み止めを使用された可能性があるのは、意識がない搬送直後から入院5日目までの間となります。

お医者さん等に確認したわけではないのですが、たぶんその期間中に膝裏の患部の処置を行う際に、痛み止めが投与されて、意識がないながらも幻覚・悪夢に襲われていたのかなと思います。それが記憶には残ってないのですが、身体は覚えていて強烈な既視感を覚えるという、、、そんな可能性はないですかね?

とにかく医学的にはよくわかりませんが、私はそのような感覚を強く抱いたので記録しておきます。

さて、処置自体は十数分で完了し、お医者さんたちも『これで落ち着くだろうな』みたいな雰囲気を出していました。

入院7日目【夜間終盤】(意識7〜8、身体1)

ところがどっこい、心拍数が一向に下がらず(実際はそうでもなかったものと思われる)、息苦しさも全く改善されません。特に心拍数が高い感覚は搬送前の状態に似ており、「ここに運ばれる前の似た症状なので凄く不安です」などと必死に訴えるも、息苦しさに対する具体的な施術はされません。このとき、午前3〜4時くらいだったはずです。

お医者さんは、肺に水が溜まっているのではないかと当たりをつけていたようで、身体の水分を抜くような薬を投与されました。

この薬により私史上最高の苦しさを味わうことになります。確かに水分が抜けているようで、死ぬほど喉が乾いてきます。日中に人工呼吸器を抜管した影響で、とても変な味のする痰が喉奥に残っており、それが乾いて口中に広がっているのですが、飲み込む水分がないのでずっと口中が気持ち悪いです。

当然、息苦しさも改善せず、ぜえぜえはあはあしながら、ひたすら耐えます。治るかもしれないと思ったのもつかの間、このまま死ぬのかな、と思うくらい私の入院生活でキツかったことランキング堂々の1位となる時間を過ごしました。

物理的な苦しさに加えて、まわりにお医者さんや看護師さんが揃っているのに、ひたすら様子見をしていて具体的な施術が行われず何をやっているんだという怒りに近い感情を覚え、薬剤投与からどれくらい耐えればいいのか具体的な目標設定もなく、精神的にも非常に苦しかったです。

体感では薬剤投与から1時間くらい経って、ようやくお医者さんが動き出します。このとき、肺の一部が死んでいて、肺の一部を切除されるのだと思い込んでいました。なぜ、そう思うようになっていたのかは不明。

そしたらお医者さんが『数値的には問題ないのですが、とても苦しい様子なので、もう一度人工呼吸器に戻します。いいですか?』と聞いてきます。

治療的には一歩、二歩後退となる決断ですが、今の状況が改善されるなら肺を切られても構わないくらいの心持ちだったので、即答で「問題ないです。お願いします」と答えました。

そうして、日中に抜管してから1日も経たずに再び人工呼吸器の管理下に置かれることとなりました。

人工呼吸器を装着すると、それまでの息苦しさは全くなくなり、また意識レベルが下がる薬も投与され始めたためか、まもなく深い眠りにつくこととなりました。

入院8日目(意識2〜3、身体1)

基本的に手術や重大な処置(人工呼吸器の挿入・抜管など)を行う際は、家族への確認・承諾が必要なようで、家族に対しては何日に何をしますよ、と予告していました。

前夜の人工呼吸器再挿入に関して未明の出来事であったため、現場判断で行われ、家族には事後報告となりました。『今後一週間が山場』と言われていて、ちょうど入院から一週間経つこの日に明らかな容態悪化が見られ、家族は相当不安だったのではないかと思います。

お医者さんも非常に申し訳なさそうにしていて、苦しい思いさせて申し訳ないと何回も謝られました。

「ビジネスの世界ならトライアンドエラーは普通のことで、人工呼吸器抜いてうまく行かなかったから戻しただけなのでしょうし、こちらは全然大丈夫です」と言いたかったのですが、意識レベルが低く、筆談もままならない状態で何も言えないのがもどかしかったです。

こんな状況に置かれた自分は、まわりにいるお医者さんと看護師さんを全面的に信頼する以外に道はないと素直に思えていたので、自然体で余計なことは考えないでいられました。

日中は虚ろ虚ろしながらボーッと過ごして、夜は眠剤で眠りに落ちる。そんな生活で、不思議と暇とか思わずに過ごしていました。

入院9日目(意識3〜4、身体1)

少しずつ意識レベルが回復している感覚があり、ようやくまともに筆談できるようになりました。

この日、妻が面会に来たときに真っ先に聞いたことはポスティングでのメジャー移籍を試みていた今永昇太と上沢直之の去就でした。

大谷翔平や山本由伸がドジャースに決まったことは入院前に知っており、特に今永はWBC出場組でもあり個人的に思い入れもある選手なので、どれくらいアメリカ市場で評価されるのかが入院6日目くらいからずっと気になっていました。幻覚により、眼の前にパソコンがあるはずなのに、なぜか全然インターネット検索できないなあ、イントラネット接続なのかな?とか、そんなことに思慮を巡らすくらいには、今永の去就が気になっていました。

筆談用の紙に「今永はどこに決まった?」と書いて、『え?今永って?野球?』と妻に困惑されたことはよく覚えています。

ちょうど聞いた日に今永のカブス入団の速報が出ていたらしく、その場で調べてくれた妻から『カブスだって』と教えてもらうと、おお!誠也と同じチームか〜。で、契約規模はどれくらいだろう?と思ったので紙に「いくら?」と書いて聞くと、『1500万ドルで複数年?』と言われ、いい評価で決まって良かったなあと物凄く安心したのです。

また、上沢に関してはマイナー契約でレイズというニュースを見せてもらい、「マイナーでもメジャー目指すのか。。。茨の道だけど、夢なら応援しよう」などお気楽に思っていましたが、これを書いているいま(2024年12月末)では、全く別の感想を持っていることだけはお伝えしておきたいです。

入院10日目(意識4〜5、身体2)

点滴を打ち、たくさん睡眠をとることで、徐々に身体にパワーが溜まってくる感覚がありました。

まだまだ身体を大きく動かすには至りませんが、すらすらと文字を書けるくらいには手指の感覚は戻ってきました。

そこで、お医者さんに自分のいまの状況と今後の治療方針を聞きたいと思い、筆談にていろいろ質問しました。

このときのQAは概ねこんな感じです。

Q.今回の病気の原因は何か?
A.わからないというのが正直なところ。一つ言えるのは膝裏の湿疹部から溶連菌が侵入した可能性があること。ただ、菌が入れば必ず劇症化するというわけでもなく、若い人でもかかる恐れのある病気で運が悪かったとしか言いようがない。

Q.生活習慣による影響はあるのか?
A.生活習慣は関係ない。誰でもかかりうる病気。(※一般的には糖尿病罹患者などは病状が悪化しやすいなどの影響はあるそう)

Q.腎機能は回復するのか?
A.治ります、とは言えない。一般的に急性腎不全の場合は、機能が回復することも症例としては存在する。ただし、いつどれくらい回復するかは個人差がありすぎるし、回復しない人も中にはいるので、何も保証できない。

Q.膝裏の患部はどう治すのか?
A.今後は患部に皮膚の土台となる部分(敷布団という表現をしていた)が生成されるよう陰圧閉鎖療法という方法を取る予定。土台ができたあとは、2パターンあって人工皮膚を移植して穴を塞ぐか、周囲の皮膚をずらして穴を埋める『皮弁』という施術をするかもしれない。

Q.子どもとの面会は可能か?
A.ICU内での面会はできないけど、例えば病棟の外にベッドごと運んで、そこで会うとかなら可能かもしれない。どうにかできないか考えてみます。

ようやく自分の病状や治療方針を詳細に知り、受け止めることができました。ただし、膝裏の患部の治療法は、それ以降も何回も聞くことになるのですが、何回聞いても意味わからなかったです。(皮膚をずらすといっても、そもそも面積が不足しているものを面積が不足しているもので覆う発想って無理がない?とか思ってましたが、人間の皮膚って伸びるし再生されるから何とかなるもんなんですね。医療って凄い。)

入院11日目(意識5〜6、身体3)

経過良好とのことで、翌日に人工呼吸器を再度抜管することが決まりました。順調に行けば、人工呼吸器のお世話になる最後の1日となります。

さて、ここまで言及していませんでしたが、人工呼吸器も万能ではなく、患者目線では非常にキツい点が一つあります。

それは空気を送る管に唾液が溜まってしまうことです。唾液が溜まりすぎると、空気が送りづらくなり、最悪窒息するのでしょう。なので、定期的に唾液を吸い出す作業が必要となります。

人工呼吸器つけたことある人なら伝わると思いますが、この吸引の時間がとても苦しいのです。必ずえづくのですが、口の中には管が入っているため、おえって声に出すことも綺麗に咳払いをすることもできません。一回の吸引は10秒程度とわずかな時間ではあるのですが、呼吸という生命に直結する動作を看護師さんの一手に担われている感覚も怖さがありましたし、何しろ多いときは1時間に2〜3回と頻繁に行う作業なので、結構しんどかったです。キツかったことランキング第6位です。

そして、この日の担当はどうやら歴が浅く、患者のわずかなリアクションに敏感に反応して対処してくれる、よく言えば面倒見が良く、悪く言えばしつこい看護師さんでした。

私が少しでもむせこむような音を立てると、例の唾液吸引をすることになるため、必要以上に喉元の違和感を我慢していました。

しかし、そうしたきめ細やかなお世話のおかげか、この日が入院して最もよく寝れたなという感覚で、翌日の抜管に体調万全?で臨めるなと思いました。

入院11日目【日中】(意識9〜10、身体3)

意識レベルを下げる薬の投与が終わったためか、周りがいつも以上にクリアに見えます。自分がいるICUの奥行きや、病床数、働く看護師さんの数、日勤・夜勤の時間帯、奥で事務作業をする日勤の方々、巡回の医師、所属科によって異なるユニフォーム、担当医師の名前(ここまで知らず、というか担当医師は5人くらいいて未だに顔と名前が一致していない人も何名か)など今まで以上に情報を得ることができるようになりました。

そして、人工呼吸器再抜管に向けて、身体の余分な水分を抜く必要があるとのことで、午前中から午後にわたり、4時間半かけて人工透析を行い、その後しばらくして抜管の処置が行われるとの段取りでした。

人工透析自体は入院直後からほぼ毎日行われていたはずなのですが、いつも意識レベルが低いときに行われていたので、この日はじめて人工透析する様子を認識しました。

人工透析専門の作業者(たぶんお医者さんではない)が1メートル以上ありそうなキャスター付きの巨大な装置を持ってきて、自分の病床のまわりで色々セットアップします。私の左太ももの付け根付近には透析用のカテーテルが装着されており、透析機の様々な管をそこに繋いで、身体を巡る血液をいったん透析機にかけて老廃物や水分を引いて、体内に血液を戻す。という作業が自動で行われる仕組みです。

透析自体は身体に良いことに思えるのですが、これがなかなか身体に負担のかかる行為のようで、実際透析を受けている最中はなんともいえない脱力感に襲われます。

この日はICU内で暇を潰せるようなグッズも一切なく、透析を受けている最中はひたすら目を閉じてじっとしていました。そのうち、眠りに落ちて気がつけば、透析終了していました。いよいよ人工呼吸器再抜管を待つばかりです。

透析終了から30〜40分くらいして、担当医がサポートする医師や看護師を引き連れて、私の病床のあるパーテーションのなかに所狭しと集結します。

いよいよだ、と思うのと同時に、これがうまく行けば本当に助かるのかなという生の実感も湧いてきます。

準備が整うと、担当医が私に告げます。

『ここからは自力で呼吸してくださいね。3・2・1、はい!』

と言うと、こちらのリアクションを待つ間もなく、口から人工呼吸器を手で一気に引き抜くのです。音にすると「ゴボッ」ですかね。3日前から点滴と睡眠をたくさんとって回復に努め、当日は透析に4時間半かけて、と物凄いセットアップをしてきたのに、抜管が一瞬で終わって相当拍子抜けしました。入院7日目に抜管したとき、どうやって抜管したのかよくわかっていなかったからこその感想でしょうが。

そして、入院7日目にも味わった気持ち悪い味の何かがたくさん口の中にあるので、用意してくれたティッシュやビニール袋にとにかく吐き出します。いくら吐き出しても気持ち悪さの後味が残り、やはり気持ちよくはありません。しかしながら、また久々に自分の声帯を震わして喋ることができました。この喜びは、何にも勝ります。

処置をして落ち着いたところで、抜管により傷ついた喉や気管を保護するため、綺麗な空気を送り続けるマスクのようなものを口元に装着させられました。

これが臭いのなんの。薬品の匂いのようなものが、断続的に襲ってくるため、あまりにも臭すぎて気持ち悪くなってしまいました。そのことを看護師さんやお医者さんに訴えたところ、鼻にだけ装着する呼吸器みたいなものに変えてくれました。だいぶ穏やかになったのですが、この後入院生活で3番目にキツい時間を過ごすことになります。

入院11日目【夜間前半】(意識10、身体3)

ICUで働く看護師さんは患者の数の同数以上いるはずです。看護師さん一人あたり担当する患者の数は2〜3人程度で、一般病棟だと1人で14人くらい担当することもあり、ICUのほうが患者に対して密接なケアをします。

とはいえ、病状が突然変わるようなことがなければ、基本的には落ち着いており、ICUで働く看護師さん、特に夜勤の方々は暇な時間が往々にしてあるようです。

再抜管前から意識レベルはほぼ入院前と変わらないくらい回復しており、普通に喋れるようになったことで、身の上話や軽い冗談も飛ばせるくらいには頭も回っていました。

たぶん、そういう患者さんはICUにおいては珍しく、ICUで働く看護師さん(特に夜勤)は20〜30代の若い人が多いということもあり、担当外の看護師さんとも色々話すことができました。

そうしたなかで、担当外の看護師さんが洗髪してくれることになりました。頭以外の全身は1日1回看護師さんが拭いてくれていたため、身体の汚れは気になりませんでしたが、頭部は入院以来一度も洗髪ができていなかったため、非常に気になっていました。まさか洗髪できるとは思わず、心躍ります。

ベッドに横たわったままでも洗える方法があるようで、器用に洗髪してもらいました。とてつもなく頭がサッパリして、これから待ち受ける再抜管後の夜に備えることができました。

というのも、抜管直後しばらくは飲食ができないため、まだ水を飲んだり、食事をしたりはできずにいました。水が飲めないとなると、睡眠剤を摂取する方法がないというのです。(人工呼吸器装着中は点滴経由での投与が可能だったのかな?)

抜管初夜は睡眠剤なしで、自力で寝てくれというわけです。

ICUという相当特殊な環境で過ごすには、私の意識レベルは回復しすぎていました。ピッピッと鳴るバイタルの音、時折しきい値を外れて鳴る警告音、意識ある患者が鳴らすナースコールの音、そして何よりも自分が嫌で嫌でたまらなかった人工呼吸器から唾液を吸引する音が、建物のなかで絶え間なく響き渡っています。

そして、人工呼吸器は抜けたとはいえ、
・Aラインと呼ばれる右手首の動脈に繋いだ管と、それを保護するテープや固定具
・左腕に点滴や薬剤を投与する管が数本
・左太もも付け根に透析用カテーテルが数本
・左脚下部は包帯等で固定されていて、曲げることができない
・喉元保護用の鼻につける呼吸器
・胸元にバイタルを計測するセンサー類
・尿計測、排出のためのバルーン
など普段身体についてないものが大量についており、普通に気になりますし、自由に動けるわけでもありません。特に寝返りや横向きに寝ることが不可能で、常に仰向けでいないといけません。体勢を変えられない辛さもかなりありました。

また、自分の病床は個室ではなく、パーテーションで区切られただけの場所であるため、看護師さんが行き来する通路は基本的には割と明るいです。目をあけていると、明るくて眠くなるような気持ちにはなりません。

ということで、目をつむってじっとする以外にやることないわけなのですが、目をつむるとお化けが出てくるのです。

痛み止め薬の副作用の幻覚症状は意識がハッキリした後でも残っているようで、目をつむると自分の様子を見るためか、無数のおじいちゃんとおばあちゃんらしき人物たちが、自分のベッドの取り囲んで立っているように見えます。自分は生きられなかったけど、助かった珍しい若者を興味本位で見るような視線を感じるのです。怖さはそれほどないのですがあまり気持ちが良い映像ではないので、目をつむりたくありません。

五感すべてが気持ち悪い状態で過ごすことになり、久々に頭もクリアになって何もすることがないため、頭の中でいろんなことを延々と考えてしまうような、よくある寝れない状態がずっと続きました。

ちなみに、極限状態を脱すると、生への渇望が影響していたせいなのか、戦争関連のことが頭の中を巡ります。この晩はプライベート・ライアンの上陸シーンと最後の橋の攻防戦、硫黄島の戦いやペリリューの戦いなど、過去に見た戦争映画ものの映像や書物で得た知識が脳内を駆け巡り、そこから脱することができませんでした。これも気持ちが良い状況ではありませんでした。

とはいえ、一時の危篤状態からは脱して、生き延びたなあとひしひし実感したものです。子どもたちに会いたい気持ちが増し、これからも我が子の成長を見ていけるのだと思うと、涙が出てきます。

そんな様子で結局、一睡もできずに翌朝を迎えることになります。何もできない身体で、意識クリアな状態で同じようなことを考えちゃうような時間を過ごすことがかなりキツかったです。生き延びた嬉しさはあれども、第3位のツラさでした。

ちなみに、幻覚症状みたいなものはこの日を境に、翌日以降はほとんど見なくなったので、医学的な幻覚の可能性も否定できませんが、もしかしたら幻覚ではなく本当のお化けだったのかもしれません。

私はこれまでお化けなどの霊感的なものに関して「あなたがお化けを見たというのなら、あなたの宇宙での出来事である以上、それは信じる。でも、現実には存在しない。」というスタンスでしたが、私の現実で見てしまった可能性がある以上、そのスタンスはとれないなと思いました。

また、これも後日談ですが、子どもから『お化け見たことある?』と何気なく聞かれたので、「お父さんは見たことあるよ!」と張り合うようにしています。

入院12日目【日中】(意識8〜9、身体3)

久々の完徹をまさか病院ですることになるとは思いませんでしたが、お医者さんに「結局、一睡もできませんでした」と伝えると『そりゃそうだよね。おれも寝れないと思う』と共感されました。ICUあるあるなんでしょう。

睡眠不足であることに違いはないのですが、とはいえ眠くもならないので頭がボーッとしたまま午前中を過ごします。

この日は、左脚の患部に対して陰圧閉鎖療法という、患部に皮膚の土台が生成できるよう補助するための装置をつける処置が行われる予定でした。

眠さで少し意識レベルが低いとはいえ、抜管前とは比べ物にならないほど頭脳明晰な状態であり、これまでは特に説明のなかった処置の内容等についても予告されるようになりました。

このときに例の痛み止めの薬による副作用の話をされました。例の幻覚や既視感はこの影響なんだと、最初に納得がいったのはこの日のことです。

そうこうしていると、処置の準備が整い、痛み止めが投与され、何度目かの非現実の世界へと飛び立ちました。

これも非常に不思議なことなのですが、このときに見る幻覚はだいたい同じ内容なのです。何度か見る内容なのと、「これは幻覚である」という認識も意識の片隅に存在しています。

意識レベルが低かったときとの違いは、時折患部に何か処置している感覚が戻ったり、患部の触感までは失われていないため、何か液体をかけられている感覚で現実を認識したりと、現実と幻覚との間を意識が行き来している状況でした。

ふわふわとした感覚のなか、お医者さんに『起きてください!』と勢いよく身体を揺さぶられ、「いま悪夢のようなものを見ていたと思いますが、痛み止めの薬の副作用です。幻覚が何日も残ることもあるので、続いていた場合は、相談してください。」という説明をされました。当の私は、一気に現実に引き戻された驚きで面を喰らってしまい、かけられた言葉の意味を咀嚼することはできましたが、そこからなぜか恐怖感による震えが襲ってきました。

このときどういう表情していたのかわかりませんが、ベテランの看護師さんが『大丈夫だよ』という感じで優しく手を握ってくれて、少し落ち着いたような気がします。しばらくして、軽く意識が飛んで、少しの間だけ眠れたような気がしますが、このときも変な夢を見ていた気がします。

1時間弱くらいの昼寝を経て、病床を別の場所に移すこととなりました。

意識レベルが回復したことで、何もしない時間が物凄く暇です。かといって電子機器の持ち込みはできないため、スマホ等触ることも叶いません。そのあたりを考慮してくれ、テレビを見れる場所に移動しようという配慮です。

入院12日目【夕方】(意識9〜10、身体3)

夕方くらいにテレビが見れる場所に移動して、12日ぶりにテレビを見ました。といっても、普段そんなにテレビを見る人ではないので、この時間に何がやっているか全くわかりません。適当にザッピングしながら、夕方のニュース・情報番組でやってた、ディズニー・シー所属のシェフがフレンチの世界大会に出場するドキュメンタリーみたいな特集がとても印象に残っています。

ニュースでは、正月に起きた能登半島地震に関する報道を色々見ました。寒い避難所で過ごすことを余儀なくされているなど、とても大変だなと思わされます。しかし、私も私で大変な状況ですが、病室(ICU)内は温度が一定に保たれ、半袖で過ごすのがちょうどよいくらいの温暖な場所です。なんとも言えない気持ちになったので、無事に退院できたら寄付するからいまは勘弁を、と心の中で呟いていました。

そして、18時頃になると入院後初めてのちゃんとした食事を摂りました。献立は全粥、エビチリ風煮込み、惣菜、スープといった感じで、個人的に苦手なエビが初食事かい!とも思いましたが、久々に口から食事できる嬉しさが勝り、またも感動的な気持ちになりました。

しかし、そんな感傷に浸るのも一瞬で、あっという間に満腹になります。10数日固形物を胃に入れてなかったこともあり、びっくりするくらい胃が小さくなっている感覚です。しかし、点滴による栄養補給は今後しないとのことで、ちゃんと食事をしないと栄養が摂れません。病院での食事は治療の一環です。気合いで食べ進めましたが、看護師さんも「無理ない範囲で大丈夫ですよ」とのことで、3分の1くらい食べたところでギブアップしました。

食事後は抗菌薬、胃薬、何かをサラサラにする薬など5〜6粒を毎回飲むことになっています。粉薬もあり、地味に大変な作業でしたが、明確な治療行為なので頑張ります。

このあたりで、今回の入院はさすがに長期戦になることは避けられないと察し、1日も早く退院することよりも、できるだけ良い状態になって退院したいなと思っていました。

入院12日目【夜間】(意識9〜10、身体3)

食事後は就寝時間まで自由時間です。といっても、テレビ見るしかやることないのですが、何もないより遥かにマシです。体力やメンタル的にお笑い系のバラエティ番組を見る気持ちにはなれず、あんまり知らないアーティストばかりではありましたが、カウントダウンTVのライブ番組が病の身にはよく染みてとても良かったです。やはり、困ったときは音楽の力だなと。

カウントダウンTVが終わったくらいで就寝時刻です。前夜とは異なり、睡眠薬を飲めるため、この日はグッスリ寝れるはずです。能動的に睡眠薬を飲む経験は初めてですが、薬を飲んで15分後くらいに溶けるような感覚のなかで眠りに落ちました。

そして、パッと目が覚めます。あたりの様子は就寝前と特に変わらずでしたが、朝になっているのかなあと思い、テレビをつけると22:00とかそれくらいで、1時間も寝れていないことに軽く絶望しました。

もう一度寝ようと試みましたが、左脚を伸ばせず、左脚に体重をかけることもできず、基本仰向けの姿勢しかとれず、とにかく寝れません。結局寝ることを諦め、再びテレビをつけます。松本人志のグレートジャーニーの特番を見ていたのですが、カザフスタンの奥地で旧ソ連の核実験施設を見に行く、みたいな重めの内容で、また戦争系の思考に脳裏が占められそうになり、テレビを消しました。

一晩に2回までなら睡眠薬摂取して良いとのことで、ナースコールで看護師さんを呼んで2回目の睡眠薬をもらいました。薬の力は絶大で再び眠りに落ちると、どうにか4時間程度寝れたようで、テレビをつけたら早朝のニュース番組がやっていました。

4時間なら御の字だろうということで、そのあとはテレビで主に能登半島地震のニュースを見ながら、ボーッと過ごしました。途中、飼い犬のために建てた自宅特集みたいな、箸にも棒にもかからないような映像が非常に心地よかったものです。

入院13日目【朝】(意識10、身体3)

人工呼吸器が外れて会話ができるようになってから、多くの看護師さんと会話をしましたが、私のような30代と若く(ICU入院患者の大半は後期高齢者と思われる)、かつECMO2台に連結するほどの危篤状態から、普通に喋れるくらいに回復した症例はとても珍しいようで、ほぼ全員の看護師さんから『ここまで回復して本当に良かった』『本当に奇跡的ですよ』など何回も言われました。

このICUは数え切れないくらいの人が息絶えた場所なのでしょう。いくら最先端の医療が揃っているといえども、どうしようもない病状や絶望的な状態で搬送されてくる人もいるわけで、無数の患者さんがこの世を去った、ある意味地獄のような環境なわけです。

劇症型溶連菌感染症患者の受け入れももちろん初めてではなく、後に聞いた話では全く同時期に同じように比較的若い年齢の人が同じ症状で入院していたそうです。そちらの方の病状については秘匿義務もあるでしょうが、ポジティブなことを何も教えてもらえなかったので恐らく私より深刻な状態だったのではないかと思います。後日、私の担当医は『あきさねさんのような若い方が(劇症型溶連菌感染症で)運ばれてくること何度かあったのですが、「ああ、またダメだったか」という感じでした』と言っていて、手を尽くしてもどうにもならない、そして若い人の命を奪う厳しい感染症だのだと、看護師さんやお医者さんたちのリアクションを通じて、「ああ、自分はとんでもない状況からよく生き延びたんだなあ」と、実感を得ていくのでした。

また、大学病院なので、『白い巨塔』などの医療ドラマで描かれがちな「教授総回診」があります。これはどうやら実在するようで、私の病床にも普段ICUであまり見かけない服装の人を先頭に、あまり見かけないお医者さんや看護師さんたちの集団がやってきて、患者の様子や状態について説明しているところを何度か見ました。

その集団にいた看護師さんの一人が、物凄い笑顔で私に手を振ってきて、近づいてくると『あとでお話させてください!』というのです。そうして、総回診が終わったであろう頃に私の病床に来るなり、『あんな状態(ECMO2台接続)からここまで回復した人、初めて見ました!握手してください!!』と満面の笑みで言われました。

この方もパッと見、ベテラン寄りの看護師さんだと思うので、それくらい経験がある方でも握手したくなるほど珍しいのだと思うと、これは本当にとんでもない奇跡が起きたんじゃないかな?と、一番生のありがたみを実感した瞬間でもありました。

この看護師さんと仲良くなれたので、自分のカルテを見てもらい、記憶になかった入院直後から5日目くらいまでの出来事を補完したのでした。

入院13日目【昼間その2】(意識10、身体3)

この日のスケジュールは、2日ぶりの人工透析を行うことと、透析にあたって左太もも付け根についている透析用カテーテルを、首元に付け替える処置を行うことでした。

その準備として、前日に左太もも付け根についていたカテーテルを撤去する処置を受けていました。カテーテルの撤去は特に痛みもなく、むしろジャラジャラしたら管が無くなりスッキリしたものでした。しかし、この日にはそのジャラジャラを首元につけるというのです。

また、人工透析をできる場所(病床)は制限があり、今いるテレビが見れる場所だと透析ができないとのこと。透析ができる病床へ引っ越しすることになりました。

テレビがないとなると、めちゃくちゃ暇になってしまいます。このことを見据えて、前日に妻と面会した際に、何でもいいから小説みたいな本と、詰将棋の本を持ってきてほしい!と懇願し、東野圭吾の『ブラック・ショーマンと名もなき町の殺人』と、浦野先生の『3手詰ハンドブック』を差し入れてもらいました。

小説はシンプルに暇つぶしのため、詰将棋の本は脳がおかしくなってないか、術前に比べて読む力が衰えてないか確認してみるためと、その気になれば何周でもしていいものなので無限に暇つぶしできると考えたためです。

久々に解く詰将棋に集中しつつ(と言っても、別に入院前も日常的に詰将棋に取り組んでいたわけではない)、お昼すぎくらいの時間に首元にカテーテルをつける処置に備えて、看護師さんたちが準備を始めます。

テレビは見れないのですが、ラジオなら聞けるとのことでナイツがやっているニッポン放送の昼の帯番組をかけてもらいました。このときの雑談で、自分の担当看護師とカテーテルの処置をしてくれるお医者さん、そして私自身はオードリーの深夜ラジオリスナー(通称:リトルトゥース)であることが分かり、少しだけ盛り上がりました。

こんな穏やかで楽しい時間もつかの間、首元にカテーテルをつけることが、最悪に近い出来事になろうとは思っていませんでした。考えようによっては辛いことランキング第1位になってもおかしくないほどの処置なのです。

詳しくは「透析 カテーテル 赤」などで検索してほしいのですが、カテーテルを挿入すると透析機との接続部分となるジャラジャラしたものが首元からぶら下がってる状態になります。何かに引っかかってカテーテルが抜けたら大事なので、周囲の皮膚に強めに縫い付けて固定させます。そのため首元にジャラジャラした邪魔なものが常にぶら下がっている不快感、常に皮膚が引っ張られているような物凄い違和感、シンプルに太めの血管に直結している管が首元にある異常な不安感。この3つの不快な気持ちとこれから当面の間付き合うことになるのです。

完全に意識がハッキリしている状態で処置を受けることは入院後初めてのことです。首元に部分麻酔をしただけでカテーテルを挿入する処置を受けました。術部だけが露出するように、ビニール状のカバーで上半身を覆われるのですが、透湿性など皆無なのでめちゃくちゃ暑いです。首元という非常にセンシティブな場所へお医者さんが刃を立てている(実際はたぶん針を刺したり縫ったり)状況も怖いですし、とにかく嫌な時間でした。

唯一の救いはナイツのラジオにゲストとして近鉄・楽天・マリナーズ・巨人に所属した岩隈久志が出ていたことです。中学生相手に野球を教えているという岩隈の話に少しだけ救われた気持ちになりました。

入院13日目【昼間その2】(意識10、身体2)

カテーテルの違和感のため、首が曲げられない状態になりましたが、早速新設したカテーテルを使って、人工透析を始めます。

意識ありの状態で過ごす人工透析は2度目ですが、この日は眠気も少なく透析を行う4時間半のうち大半を意識がある下で過ごしました。このときに備えて小説と詰将棋本を用意してもらったので、小説を読み進めます。

首元のカテーテルや左脚のせいで、横向きで寝転がることはできません。本を持ちながら仰向けで見るのは、両腕の体力的にしんどく、結局テーブルを用意してもらい、ベッドを起こして上半身を少し支えながら、テーブルの上に両肘をつくような体勢で読むことにしました。この体勢の問題点は机に接触する両肘が痛くなることと、支えがあるとはいえ身体を起こしていることによる体力の消耗や、透析による消耗などのもあり、30分くらいしたら疲れてしまいます。

30分読む→ベッド倒して10分休む→また30分読む・・・みたいなサイクルで頑張って本を読んで、暇を潰していました。

結局この日は3分の2くらいまで読み進めて、透析の時間は終了します。

入院13日目【夜間】(意識10、身体2)

身体の現状としては、
・首元から透析用カテーテルが出ている
・右手首にAラインと呼ばれる管がついている(血圧測定・採血用でバイタルに接続されている)
・左腕に点滴用のカテーテルが何本か出ている(だいたい何かしらの点滴パックに接続されている状態)
・左脚の膝裏に陰圧閉鎖療法用の管がついている(吸引する装置に向けて管が伸びている)
・右脚のふくらはぎ付近にエコノミーショック予防装置がついている(定期的にふくらはぎが締め付けられる)
・左太ももの付け根に裂傷(透析用カテーテルの移設跡)
・右太ももの付け根に裂傷(ECMO挿入跡)
・右足首に裂傷(謎)
・胸部にバイタル測定用のセンサーを貼付(3本くらいの導線がバイタルに接続されている)
・陰茎にカテーテルを挿入し、尿管を広げるバルーンを挿入(尿は垂れ流し状態で、排尿量計測のためカテーテルが容器に接続)
といったところで、まあ満身創痍です。意識も回復したし、体力回復のためベッドから動いたりしたいところですが、まだまだ管まみれで身動きとれない状況なわけです。

つまり、10数日間歩いたり立ったりしていないのですが、自分の両足が体感で入院前の半分くらいまで細くなったんじゃないかというほど痩せてしまいました。体重自体は点滴による栄養補給と、身体に水分が溜まりやすいので60kg台中盤を推移し、入院前から4〜5kg程度落ちている状況です。なので、4〜5kg分の筋肉が失われたような感覚で、何をするにも身体が重くてだるかったです。

このような状態でも身体は新陳代謝を再開しており、爪は伸びるわ、皮膚は剥がれるわ、汗もかくし、皮脂も出るわけです。排尿はできませんが、排便はあるので、おとな用のおむつを常に身につけていました。

しかし、ここはICU。看護師さんが担当する患者さんの数は2〜3人程度であり、意識のある私に対しても手厚いお世話をしてくれます。してくれるのですが、様々な不自由が重なっている状況なので、ストレスに感じることも多々あります。

そのなかで特にストレスだったのが、右手首のAラインの固定です。点滴や透析用カテーテルなど、基本的には静脈につなぐようです。しかし、Aラインは動脈につなぐものです。万が一抜けてしまうと、勢いよく大量の血液を失うことになりかねないため、専用のシールを使って厳重に固定されます。さらに手首を曲げたりして、動脈に刺している針が折れたり曲がったりしないよう、手首にギプスのようなものをはめて固定されます。右手の指先は自由ですが、手首を曲げられないので食事や読書をしにくかったです。(ギプスによる固定に関しては、昼間や食事中など意識がある時間帯は『気を付けてくださいね』という感じで外しても大丈夫ですよ、と言ってくれる看護師さんもいました。このへんは看護師さんによって対応がまちまち)

しかし、私は30代の若者で、それなりの発汗があり、それなりに新陳代謝します。皮膚に固定するシールといっても、わりとすぐ剥がれかけてしまうのです。剥がれかけるたびに、専用シールを貼り直すことになるのですが、動脈に針を刺すアタッチメントを良い感じに固定しながら専用シールを貼る作業は、あまり器用でない人にとって大変難しい作業となり、基本的に看護師さん2人がかりで対応することが多かったです。

1回あたりの作業時間は長くて5分程度ではありますが、だいたい1日に3〜4回発生します。夜寝ている最中にも、手首のシールが剥がれかけていたら、病床の明かりをつけて対応せねばなりません。意識ないときは、ほとんど右手首も動いてなくて、高頻度での交換はなかったと思われますが、入院5日目以降(私が意識を取り戻してから)はとにかく頻繁に交換していた印象しかありません。ちなみに、シールはこの手の粘着物質界隈では絶大な信頼がおけるであろうスリーエム製なので、たぶん誰がどうやっても剥がれることは避けられない代物なのでしょう。ある看護師さんの『これはICU勤務の宿命なので。』と言っていたことも印象的でした。

そうして、迎えた13日目の夜なわけですが、この日の担当看護師はベテランの男性(といっても20代に見えるくらい若そうな人)でした。ボディビルダーじゃないか?というかボディビルやってますよね?というくらい、上半身がムキムキで元西武ライオンズのアレックス・カブレラみたいな腕をしています。加えて他の看護師さんも『◯◯さんが言うなら問題ない』というくらい、ICU内でも一目置かれている存在のようでした。

いつも通りに先ほどのAラインを固定するシールが剥がれかけており、血圧測定でエラーを起こしていました。貼り直そうと、シールを剥がしたところ、動脈に刺す針の根元が曲がってしまっていたようです。入院当初から同じアタッチメントを使い続けており、使用の限界に達したのかもしれません。

なかなかの緊急事態ではありますが、そのムキムキの看護師さんは『もう大丈夫だと思うんで、抜いちゃいましょう!明日、お医者さんに伝えておきます』とか言って、現場判断で針を動脈から引き抜いたのです。もちろん、そのままだと大量出血は避けられないわけですが、カブレラ並に太くたくましい腕を使って、針を刺していた部位を力強く止血してくれました。世界一安心できる止血です。ものの数分で動脈といえどもピタリと血が止まります。念の為に強めの止血テープを貼ることにはなりましたが、あれほど邪魔だったギプスや血圧測定・採血用の管が抜けたのです。本当にめちゃくちゃ嬉しかったです。

ただ、一方でデメリットもひとつあって、この日以降の採血は物理的に注射器を刺して行うことになり、それはそれで後に困ったことを引き起こすのですが、この晩はひたすら嬉しかったです。

さらに、私に配慮してくれて、ICUのなかにある半個室みたいな病床に移ることになりました。数十の病床が並ぶメインの場所から離れていることで、前夜とは比べ物にならないほど静かな環境で寝ることができました。半個室というのは、同室している患者さんが1人いたのですが、『隣の人はまったく意識ないので、テレビ大音量で見ても大丈夫ですよ!』と喜んでいいのか微妙な言い方をされましたが、何にせよ意識明朗後初めて静かな夜を過ごすことができました。

ちなみに、テレビの音量はさすがに同室の方の意識がないから大音量OKとは思えず、自分が聞こえる最小限の音量にしていました。

ちなみに、この日見たテレビ番組で印象に残っているのは、反町隆史が関東一高のラグビー部員にご飯を振る舞う企画で、シンプルに美味しそうだなと思って見てました。

消灯後は静かな環境ではあるのですが、やはりスムーズに寝れたわけではなく、前夜と同じく睡眠薬を2度摂取しながら4〜5時間程度睡眠をとりました。

入院14日目(意識10、身体3)

ICUでの生活も、唐突にフィナーレを迎えます。

朝一番、看護師さんの交代の際、『今日、一般病棟に移りますよ』と伝えられました。

突然の話に驚きつつも、そのあと今後の治療方針など伝えに来たお医者さんに「一般病棟移っても大丈夫なのか?」など色々聞きましたが、そういう冷静に身体の心配をしつつも、一般病棟に移る=電子機器(スマホ)に触れる=インターネットできる!!という喜びのほうが圧倒的に上でした。

とにかく、知り合いや会社の人たちに連絡を取りたかったですし、半月間に起きた世の中の出来事(羽田のJAL機炎上事故も起きたことは聞いていたが、詳細を知らない)も知りたいですし、いろんな看護師さんに『一般病棟移ったら「人喰いバクテリア」で検索してみてください』と言われていたので調べたいですし、溜まったYouTubeの動画を見たいですし、サッカーのアジアカップも見たいし、巨人のルーキーたちの自主トレの動向を知りたいし、などと気になることがありすぎました。

午前中はテレビ見たり、読書しながらゆるりと過ごしていると、見慣れない看護師さんが一人やってきました。

『実は入院初日からずっとカルテを追ってました。自分と同世代なので、どんな人なのか気になっていて、少し話しても大丈夫ですか?』と聞かれます。「握手してください」の件と違う人ですが、また珍しい患者参りに来たのかなと思いました。改めて本当にレアケースなんだなと実感します。

昼食の最中に面会に来た妻にとにかくスマホ、充電器、ワイヤレスイヤホン、念のためのモババ、あと病室は電波が届きにくいみたいなのでスマホのYouTubeアプリに登録チャンネルの直近の動画ありったけとディズニーチャンネルでありったけのスターウォーズ関連のコンテンツをダウンロードしておいて!!あと会社のスマホも持ってきて!あとSwitchも!!と一方的で身勝手な注文をしつつ、ICUでの最後の食事を終えると、本格的に一般病棟への引っ越しの準備をします。

車椅子などで移動できれば簡単なのですが、13日目【夜間】の項で書いたとおり、様々な管がついていて難しい状況です。したがって、一般病棟で使用するベッドをICU内に運び込み、ベッドからベッドへそれこそ飛行機の脱出口で使うような大型のビニールシートの上を滑るように移動して、様々な管をまとめて、看護師さんにベッドごと押してもらって一般病棟へと移動することになります。

ふと、古い記憶が蘇ったのですが、この病院は私の祖父の終焉の地であります。たしか大火傷して入院して、入院中に肺炎をこじらせて亡くなったはずです。自分と同じようにICUで治療を受けた期間もあったはずで、祖父は生き延びることは叶いませんでしたが、孫の私は生き延びてICUを出ることができたんだなと。あのお化けの中に、もしかたしらおじいちゃんいたのかも?とか思い、少しエモい気持ちになります。

お世話になった看護師さんたちにも挨拶をします。『もう二度と私たちと再会しないことがベストです』と言われて、確かに。と思いました。次にお世話になるのは50年後くらいでありたいですし、50年後ならいま働いているお医者さんも看護師さんたちもほぼ全員退職しているわけだし、確かになと思いながら、ICUを去りました。(まあ、実際は一般病棟移ってからも検査や手術のためにICUを何度か訪れることになるのですが)

入院14日目【一般病棟初日】(意識10、身体3)

窓際の病室があてがわれました。といっても向かい側に別の病棟があり、特別景色が良い場所ではありませんが、それでもおよそ2週間ぶりに見る青空は、非常に趣を感じるものです。

一般病棟の看護師さんから、一般病棟でのルールや過ごし方の説明を一通り受けます。先にも述べましたが、ICUの看護師さんは患者を2〜3人程度受け持つため、患者目線だと手厚いお世話を受けることができます。一方、一般病棟の看護師さんは患者10数人程度受け持つことが通常であるため、呼び出されない限り、定期的な検温や食事の配膳などで訪れるなど必要最小限の関わりとなります。

しかしながら、私の身体はいまも様々な管に繋がりっぱなしであり、一人でベッドから下りて歩くことはできません。となると、トイレに行くことが叶わず、ICUと同様におむつの中に排泄を行うことになります。

排尿に関しては、継続してカテーテルから垂れ流し状態ですし、量も出てないので特に問題はない(?)のですが、問題は排便です。

普通に食事をするようになっているため、普通にお通じが生じます。ところが、看護師さんを呼び出す心理的ハードルは、ICUより一般病棟のほうが遥かに高いです。ICUではナースコールを押せば、要件の内容にかかわらず駆けつけてくれますが、一般病棟ではナースコールにマイクとスピーカーがベッドの頭側の壁にぶら下がっており、呼び出しを行う際にマイクを通じて要件を伝えねばなりません。基本寝たきりで身体を起こすことが難しく、呼び出しの際にマイクを手元に引き寄せることが難しいです。さらにマイクの集音性能は結構低いため、わりと大きな声を出さないと伝わりません。わりと健常と思われる患者が同室にいる状況で、「すみません、お通じが出ました」などと伝えることは結構心理的な負担が大きかったです。

そうこうして、お通じが出たからおむつを変えてほしい旨が伝わったとしても、一般病棟に勤務する看護師さんに、意識明朗とした状態でおむつを交換してもらうことの心理的な負担もかなり大きいです。有り体に言えば、ものすごく嫌な時間でした。(ICUでもおむつ交換は嫌な時間でしたが、意識不明の状態からの延長線なので、心理的抵抗はそこまで大きくなかったです)

嫌でもお通じは定期的にやってきます。悲しいことなのか、嬉しいことなのか、病院食は非常にお通じを活発にしてくれるような優しいレシピばかりなのです。1日1回どころか、日によっては2〜3回出ますし、自分の排泄物を抱えたまま過ごすことの不快感のほうが遥かに大きいため、心を砕いてナースコールをするわけです。

総じてとてもキツい体験でした。キツかったことランキング第7位です。

夕方になると、妻が荷物を持ってきてくれて、2週間ぶりにスマホに触ることができました!特に親しい友人と会社の上司に連絡をとり、2週間音信不通だった旨を詫びます。その後は、本当に脳が無事かどうかを確認するために、将棋ウォーズでオンライン対局を行いました。普通に格上にも勝つなど、なぜか入院以前より強くなっている気がしますが、まあたまたまでしょう。ともかく、脳は何もダメージを受けてないんだろうなと確信し、最悪脚が元に戻らなくても、透析生活が永遠に続こうとも、私の脳が無事ならどうにか稼いで生きていけるかなと希望を持てた瞬間でした。

というのも、同じく夕方に一般病棟に適応できているか確認するためにICUでの担当医がやってきて、排尿量が1日200ml程度まで回復していることを教えてくれました。不能の状態からは脱却できたとはいえ、200ml程度では透析は欠かせないようです。ここから元通りに回復できるかどうかも、個人差があるため、右肩上がりで回復する人もいれば、200ml程度でとどまって退院後も透析が必要となる人もいると言われます。一般病棟に移ったからには、退院を見据えて色々考えないといけないわけで、このときは人工透析生活も覚悟して担当医や透析の担当者に退院後の透析生活に関して聞いたものでした。

そして、「人食いバクテリア」で検索して、色々と調べてみました。ちょうど、タイミングよく前日くらいにYahooニュースでも話題に上がっていたようで、『致死率3割』という文字に戦慄しました。3割なんてイチローなら死んでる数字です。それに3割死ぬってことは、7割無事なわけでもなく、実際に生き残ったとしても四肢切断に至った人は大勢いることも知ります。何なら、ネット上に存在する「劇症型溶連菌感染症」の体験談には何一つ良いことが書いてなく、例のYahooニュースのヤフコメ欄に『数十年前に自分も罹患したが、特に後遺症もなく回復した。当時、珍しかったのかたくさんの看護師が自分のところに来た』という普段なら信用しないヤフコメ欄に同志を見つけて、安堵感を得たものです。

消灯時間はICUと同様に21時となっており、睡眠薬を飲んでも時折目が覚めたりしながら、だいたい4〜5時間程度眠れたと思います。

入院15日目【一般病棟2日目】(意識10、身体3)

起床時間は朝6時です。普段なら恐ろしく早いですが、だいたい4〜5時には目覚めてしまうことが多いので、早いとは感じない日々でした。

朝6時に室内灯が一斉に点灯し、担当の看護師さんは手持ちの患者さんを順々に巡って、検温や簡単な問診を行います。

また、一般病棟に移ってからしばらくの間、というよりICUにいた時からの日課でもあるのですが、この問診の時間に採血をしていました。Aラインという装置が右手首についていたときは、採血用の注射器を装置につけることですぐ採血ができていたのですが、Aラインを撤去した今は物理的に注射針を腕に刺して採血するしか方法がありません。まあ、普通の採血なんですけど。

しかし、私はずっと昔から採血に向いてない身体のようで、健康診断などで採血する看護師さんから毎回毎回『血管が見にくい』と言われ、注射針を刺してもうまく血が出ず、何度か刺す、みたいなことが頻繁にありました。採血自体に苦手意識はないのですが、採血の針を皮膚に刺す行為は多少痛いですし、良い気分ではないです。

で、この一般病棟でも過去の経験通り、スムーズに採血ができません。以降、2週間くらいにわたって、毎日何度も採血用の針を腕に刺し続けたことで、どこもかしこも青痣のような採血痕まみれになってしまい、右腕も左腕も針を刺す場所がなくなった血管、手の甲から採血を行ったくらいです。

しかし、基本的にはじっとして、多少の痛みに耐えるだけなので、キツかったことランキングでは惜しくも選外となりました。

そうこうして、朝の問診や採血が終わると、だいたい7時前後に朝ご飯です。朝ご飯など食事の給仕はヘルパーさんと呼ばれる方がすることが多く、看護師さんの仕事ではない様子でした。

8時前くらいまでに食事が終わると、8〜9時の間で夜勤と日勤の看護師さんが交代するため、毎回引き継ぎが行われます。

詳細な引き継ぎ内容はよくわかりませんが、毎回必ず確認されることが首元についたカテーテルの種類や長さの確認です。「赤が◯◯cmで、、、ん?どれですか??出ている部分は✕✕cmですけど、書いてある数字と違うなあ。」みたいな問答が、もうほぼ毎回の引き継ぎで発生していました。あまりにも毎回毎回カテーテルの種類・長さのチェックでごたつくので、なんでそんな分かりにくいのか自分で目視できる場所にないことも相まって、退院するまでずーーーっと謎でした。誰も分からない内容で引き継ぎ書かカルテに書いておくなと、毎回毎回思っていました。

この日の予定は10時から人工透析センターなる場所に移動して、透析を受けることでした。しかし、透析センターの枠(病床数)には限りがあり、かなりスケジュールがきつきつなようです。この日も10時スタート予定でしたが、なんやかんやで11時過ぎくらいに移動して透析を受けることとなりました。

自分の問題だったのは、前日に引き続きお通じの問題です。透析を始めると、4時間半はベッド上に釘付けとなり、やったことがないので詳しくはわかりませんが、途中で透析を中断してトイレに行ったり(そもそも行けない)、途中でお通じ来た場合におむつ交換できるかなど、懸念材料が多かったため、排泄は病室で終えてから移動したいところです。

しかし、10時前くらいの時点ではさほど排泄欲はなく、困ったことに10時過ぎに少しずつ便意を感じてくるのです。できるだけおむつ交換の回数を減らしたいので、出すなら一気に出したいわけです。しかし、わずかな便意で排泄してあまり出なかったあげく、数時間後の透析中に本格的な便意に襲われたらどうしよう、と思うと、病室からセンターに移動するギリギリまで粘って排泄すべきと考えるわけです。こんなことが頭の中を巡る状態でリラックスできるはずもなく、非常にストレスの多い時間を過ごしました。結果的には、どうにか移動前に排泄とおむつ交換を終え、さっぱりした気持ちで透析センターに移動することができました。

さて、センターにはICUから一般病棟に移ったときと同様にベッドごと移動しました。こんな大事を毎回するのかと憂鬱な気分にもなりますが、まあ自分は寝ているだけなのでこらえます。何より、ICUと違ってスマホを持って透析センターに行くことが可能なので、暇つぶしには事欠きません。

というわけで、一般病棟移って最初の透析です。透析センターで透析を受けている他の患者さんの様子もチラ見できますが、私のような若い人は一切おらず、おじいちゃん系の人ばかりでした。

11時半くらいにスタートして、そこから4時間半なので終了予定時刻は16時頃です。妻に頼んだオフラインへのダウンロードコンテンツを確認していると、まあ相当数の抜け漏れがあります。それ自体は全然良いのですが、例えばスターウォーズの映画はEP1と3、4と6のみ、7・8・9はなぜかきちんと揃っているという状態だったので、さすがに抜けてるEPはダウンロードしておきたいと思います。他にもPRIMEビデオで見たいコンテンツも結構あったので、ここはサブで挿してるpovoの24時間データ使い放題(330円)を買って、暇な透析の時間中に必要なコンテンツをダウンロードしまくろうと思いました。ですが、ここは電波が届きにくいでお馴染みの病院内の施設です。auのMVNO回線では貧弱すぎて、転送速度が恐ろしいほど遅く、結局必要なコンテンツのダウンロードはその日の深夜くらいまでかかりました。

しかし、退院まで尽きることのないであろう量のオフラインコンテンツを充実させることができたので、これで勝てる!と思い、ホクホクな気持ちでいたものでした。

入院16日目【一般病棟3日目】(意識10、身体3→4)

入院12日目に処置した、左脚の陰圧閉鎖療法の患部の張替えや装置の清掃など行いました。たしかに謎の物体が吸引装置にかなりの量溜まっており、何かしら効果がある治療法なのだと実感します。ですが、陰圧閉鎖療法自体はまだ継続する必要があり、左脚から管が伸びて、吸引装置と繋がった状態は継続します。

そして、とても嬉しいことが起きるのですが、排尿用のカテーテルを抜くことになりました。尿管を外すことで「トイレで排泄」という当たり前の人間らしい行為がアンロックされます!2日間悩まされ続けた排泄問題の大半がこれで解決します。

とはいえ、未だ自力でトイレに行けるわけではないので、看護師さんを呼んで、どうにか踏ん張りの効く右足を使ってうまいことベッドから車椅子に移動して、様々な管や装置を車椅子にくくりつける、乗せた状態でトイレに運んでもらい、同様に右足を上手く使ってどうにか車椅子から便座に移動して用を足すという流れです。それでもおむつ交換を人に頼む必要が無くなったのことが、メンタル的にはとてもありがたいことです。

また、毎回トイレに行って排泄するのも大変なので、排尿であればベッド上でもできるように、ベッドに尿瓶が設置されました。というよりは、排尿量を計測する必要があったので、尿瓶に排尿すればするほど、腎機能は回復していると実感できるので、わりと気分の良いものでした。

この日の夜には、サッカー日本代表のアジアカップ対イラク戦が行われました。TVerかABEMAかどちらか忘れましたが、とにかくネットで視聴できたので、消灯時間後ではありましたが、病室でこっそり視聴しました。日本は負けはしましたが、久々に心を熱くできるイベントで、楽しかったです。

入院17日目【一般病棟4日目】(意識10、身体4)

一般病棟のルールは、ICUとは別の次元で非常に厳しいものでした。

まず面会制限があります。ICUでもあったのかもしれませんが、ICUは基本的にほぼ毎日面会が可能でした。しかし、一般病棟では家族といえども中3日開けないと面会できません。10連投した藤川球児もびっくりの中3日起用です。週に2回しか会えません。

そして、ICUでは衣類に病院提供の手術着を着用しており、下着もおむつです。一般病棟では自分の身の回りのことは自分でしないといけなく、また手術着の提供は原則なしとなるため、衣類を準備せよと言われます。しかし、まだ左脚から管が出ているため、普通にズボン状の衣類を着ることができません。そのため、病院にある浴衣のような衣類をレンタルすることにしました。1日500円程度です。いまはまだシャワーなど入浴ができないのでいいのですが、入浴が始まればバスタオルレンタルに1日300円かかります。これらを自前で用意してもいいのですが、病院でのクリーニングはお金がかかる上、家族に持ち帰ってもらって洗濯となると、3〜4日に1度、溜めていた洗濯物を交換してもらうことになります。となると、病院に持ち込む衣類やタオルは6〜7セット用意しないと中3日の面会では回らないため、相当数を購入して準備しないといけません。

というコスパを比較して、浴衣型の病院着とバスタオルをレンタルすることにします。1日800円(最初は浴衣のみで500円)はそれなりの出費となりました。

一方で純粋な面会として、例えばよくある友人や会社の人が来るようなケースも考えられますが、上記のように割と身の回りのものを持ってきてもらったり、家族と会うだけで中3日の権利を消費するため、家族以外と面会できる物理的な余裕がありません。さらに、家族といえども15歳以下の面会は禁止という3歳の子持ちには厳しすぎるルールもあります。子ども禁止は数々のウイルス性疾患を持ち込まないためのルールです。ICUのお医者さんは子どもと面会いいよって言ってくれたのに、指揮系統が違う一般病棟では、ICUのお医者さんが良いって言ってましたよと交渉しても通用しません。

要は小さい子どもがいたり、友人や会社の人が面会に来たがるような若い人が入院することに全く最適化されていないルールで、病棟の入院患者の大半を占める高齢の患者を守るためのルールなのです。

さらに、シャワーの回数も原則として週に2回に制限されます。浴室に限りがあるため、入院患者が全員毎日入浴するとパンクしてしまうからでしょう。

さらにさらに、水やお茶などの飲み物は、食事の際に提供されるものを除いて自分で用意する必要があります。500mlのペットボトルの水を常飲していたのですが、1日3〜4本は普通に消費するので、手元に未開封のペットボトルを何本もストックせねばなりません。在庫がなくなった場合、館内には自動販売機の類やコンビニエンスストアを備えているので、そこで調達するのが普通なのですが、看護師さんの補助のもとどうにか車椅子に乗れる自分には病棟内を自由に移動する権利がありません。ヘルパーさんにお願いすることで、買い出しに行ってもらうことは可能なのですが、ヘルパーさんは平日の日中時間帯しかいないため、夜間や土日にお願いすることができません。土日に家族が面会に来れない場合は、土日を見据えて買い出しをお願いして在庫を潤す必要がありました。

このように病院は高齢の患者に最適化された施設です。面会ルールを筆頭に、30代で意識明朗で新陳代謝のスピードも早く喉が乾きやすい若い人にはことごとく病院のルールが合いません。これも非常にストレスに感じたことで、気がつくと後頭部の一部の髪の毛が抜け落ちて、円形脱毛症を発症していたほどです。

一般病棟に移ってからは愚痴りたくなるような出来事ばかりなのですが、とはいえ模範患者として最良のサービスを受けたいので、グッとこらえて自分を病院に最適化させようと努力します。

まず、ストレスのはけ口として、嗜好品が必要だと思いました。病院食で牛乳が出ており、フルーツゼリーの類もよく出てくるので、糖分や脂質の摂取に制限はないのでは?と思い、看護師さん経由で「果実系のジュースや飲むヨーグルトなど飲んでもよいのか?」とお医者さん・栄養士さんに確認してもらいました。答えはまさかの『OK(ただし、タンパク質を多く含むものは控えて相談してほしい)』です!

病室には24時間稼働させると200円くらいかかる有料の冷蔵庫はあるのですが、これの使用はもったいないと感じたので、常温保管ができるDoleやミニッツメイドのような紙パックの果実ジュースを大量に差し入れてもらうことにしました。これを朝に1本、昼間のゆったりした時間にもう1本と飲むことで、ささやかながら優雅な時間を感じることができ、ストレス発散に繋がったと思います。

入院18日目【一般病棟5日目】(意識10、身体4→5)

毎朝9時くらいに、担当医が来室し、医師による問診が行われていました。この定期的な問診は若手医師(たぶん研修医)が担当します。もちろん、この医師に自分の治療方針の決定権はなかったでしょうが、とはいえ看護師さん経由で何かをお医者さんに伝えるより、若手医師に伝えるほうが伝わっているような気がしたので、いろいろ要望をうまく伝えることにしていました。

その一つが入浴です。入院から18日も経つと、皮膚の新陳代謝が相当進んでおり、特に手足の皮膚がガビガビになって新陳代謝した皮膚が剥がれ落ちるような状態になっていました。普段なら入浴中に擦ることで古くなった角質を除去して、つるつるなお肌を保つことができているのですが、18日間入浴していないとそれができずに手足が古い角質まみれになっているのです。

どうしても気になって、古い皮膚を剥がしたり、擦ったりして、角質のゴミが無数に散らばってしまいます。うまくまとめてゴミ箱に捨てようにも、ベッドの布団や病室の床にどうしても角質のゴミが落ちてしまいます。あんまり衛生的ではないので、かなりストレスを感じます。

なので、とにかく入浴したいと思うようになります。一般病棟に移ってからも、1日1回洗髪はできていたのですが、入浴はできず、基本的におしぼりを使って自分で自分の身体を拭くのみです。ICU時代は看護師さんがボディソープを使ってある程度汚れが溜まりやすい場所も綺麗にしてくれましたが、一般病棟ではボディソープを使って身体を綺麗にすることができません。

日に日に身体が汚くなっており、実際に清拭に使ったおしぼりも黒ずみますし、おしぼりでこすると垢が浮いてしまうので拭いても拭いてもキリがない感覚です。

シャワーに入れなくて身体が汚い、皮膚が角質のゴミまみれになるストレスは相当だったので、キツかったことランキング第9位です。

左脚に吸引装置が接続されている以上、入浴は不可能だったのですが、やはりお医者さんは患者に寄り添ってくれます。吸引装置を外してくれることになったのです。

吸引装置を外す処置を受ける際、ICU内の手術室みたいなところに移動します。脚の処置となると、悪夢・幻覚を併発する痛み止めの存在が気になりますが、痛み止めなし・無麻酔で処置するとのことです。それはそれでどうなの、と思いましたが、実際は包帯など剥がして患部を軽く洗浄して再び包帯で巻くといったレベルのもので全く痛みは感じませんでした。

手術台に仰向けになった状態で処置を受けたのですが、術部を照らす大型の照明器具が真上にあり、銀色のボディに反射して、自分の患部が鮮明に映っていました。グロくて気持ち悪くなるかもしれませんが、自分に見えた患部の状態は、皮膚をとてもつもなく擦りむいたときに露出するような赤く肉々しい部分が映っており、以前写真で見た患部の状態はブラックホールがあるのかな?というくらい漆黒に近い真紫だったので、とても人間らしい色合いで安心したものです。

ということで、皮下組織が十分に再生していることを確認できたので装置を外すことができました。引き続き患部はガーゼや包帯で保護されていますが、その上からビニールなどで覆うような形で、防水措置を施すことでシャワーを浴びることができました。

シャンプーやボディソープを使って全身を洗う気持ちよさは何にも勝ります。風呂キャンセル界隈などという言葉を最近聞きますが、18日間風呂をキャンセルしてみろと言いたいですね。

吸引装置を外した左脚について、治療方針は大きく2つありました。

1つは、植皮です。人工皮膚で穴を塞いで、定着したらOKというようなものです。メリットは完治まで早く、退院が早くなることで、デメリットは人工皮膚は一生ものではないため、いつかメンテナンスを要することです。

もう1つは、皮弁です。患部の周囲の皮膚を剥がして、患部を覆うようにずらして周囲と皮膚と縫合して穴を埋めるものです。メリットは完治すればメンテナンスは不要なことで、デメリットは完治まで時間がかかることと縫合部が傷跡として残りやすいことです。

長生きすることを想定すれば、1〜2週間くらい退院が長引いても、メンテナンス不要の皮弁を行ったほうが良いと判断し、皮弁がいいですと伝えました。

ということで、翌日に皮弁の手術を行うこととなりました。

入院19日目【一般病棟6日目(手術前)】(意識10、身体5)

手術は午後に行われる予定でした。麻酔の種類にもよるのですが、胃腸の中は何もない状態で受けねばならなく、前夜から飲食に制限があり、当日の午前中にはカンチョーを使って腸のなかを空にさせられました。

カンチョーされて、便を我慢する時間は非常に辛かったですが、まあ一瞬の出来事だったのでツラかったことランキングは惜しくもランク外です。お腹すくし、喉も渇きますが、手術に備えて我慢です。

ちなみに、身体に行う治療のうち、「手術」と「処置」は使い分けています。正しい定義は知りませんが、医療明細の「手術料」の欄に記載がある治療については「手術」とし、それ以外は「処置」としています。今回行う皮弁は正確には「皮弁形成術、移動術、切断術、遷延皮弁術(100cm平方以上)」とあり、医療点数は脅威の22,310点です。

かなり重大な手術ではあったものの、冷静に考えれば膝裏のわずかな領域(といっても100cm平方以上)に施すレベルのものであり、どんなしくじっても死ぬほどではないなと思い、担当医である執刀医に「まあでも搬送直後に比べたら大したことないですよね〜」と言ったら『屁でもないですよ』と返されました。何とも心強い言葉に勇気を貰いますが、結果的には全然屁でもなくありませんでした。

手術自体は1時間程度を予定していて、気楽に臨むつもりでした。

まず、麻酔の種類について説明され、選択させられます。麻酔は基本3パターンで「部分麻酔」「下半身麻酔」「全身麻酔」です。今回、術部が広すぎるため「部分麻酔」は不可で、「下半身麻酔」と「全身麻酔」の2択です。

そう聞くと意識がない状態で手術を受けられる「全身麻酔」が良いと思うかもしれませんが、「全身麻酔」するには人工呼吸器の挿入が必要とのことです。他にも色々制約はあるのですが、キツかったことランキング6位に入る人工呼吸器の唾液吸引の記憶が蘇り、人工呼吸器は嫌だなあと強く思いました。

「下半身麻酔」は正確には「脊髄くも膜下麻酔」という方式で、腰の当たりに針を挿して、背骨(脊髄)の間に薬液を注入し、下半身の痛覚神経を遮断するような仕組みだそうです。「脊髄くも膜下麻酔」という言葉が非常に怖いうえに、脊髄に注射を刺す際に神経に触れて、術後もしばらくビリビリが残ることも数%発生する可能性があり、非常に可能性が低いけれども麻痺が残る可能性もある、などと怖い説明をされます。それでも、全身麻酔の人工呼吸器挿入に比べればマシだと思いましたし、お医者さん的にも下半身麻酔がイチオシのようでしたので、意識がある状態で手術を受ける怖さはありつつも「下半身麻酔でお願いします」と言いました。

そのあとは、意識明朗の状態で受ける初の手術だったので、ちゃんと手術を受ける本人の意思で、同意書に本人のサインをしました。これまでは多分妻が代理で同意していたのでしょう。

そうして、再びICU内に舞い戻り、搬送直後に手術を受けた部屋と同等の手術室にて、皮弁の手術を受けることとなりました。

入院19日目【一般病棟6日目(手術中)】(意識10、身体5→3)

まずは下半身麻酔の注射をします。脊髄に到達するほどの針を刺すなんて、それ自体が痛くて動いてしまって、神経に触れたらどうしよう?なんて考えていましたが、麻酔針を刺す部位に局所麻酔していたので、実際は何の痛みもなく気がついたら終わっていたレベルです。

麻酔が効くまで20〜30分くらいじっとしています。麻酔の効果が出ると痛みだけでなく、熱い・冷たいとわかる感覚も失われますし、自分で動かすことも難しくなります。ただし、触覚は残ったままなので、術中に皮膚を縫ったり切除する際の感覚はわかるとのことです。

脚に冷たいものを当てて、何も感じなくなったら手術スタートです。手術は胸元に枕などクッションを入れ、その上にうつ伏せになるような状態で受けます。患部の周囲の皮膚を剥がすように切り取り、根元は生きている組織と繋がった状態でずらして縫い合わせる。文字にすればそれだけなのですが、何か刃物やハサミのようなもので皮膚を切られる感覚は、しっかりと認識できるため、怖さも混じる不思議な感覚でした。

そうこうしていると、30分くらいでまず腰が痛くなり、うつ伏せが辛くなってきました。動いたら手術に差し支えると思うので我慢します。また、10分おきに血圧を測定するための機械が右上腕で作動するのですが、締めつけがかなり厳しく、もはや痛かったです。他のお医者さんや看護師さんが『大丈夫ですか?』と定期的に聞いてきますが、大丈夫じゃないと言って、執刀医を心配させて施術に影響を及ぼしたくなかったので、腰や腕の痛みをこらえて「全然大丈夫です!」と気丈に振る舞います。

手術は1時間くらいと聞いていたのに、一向に終わる気配がなく、腰と腕の痛さで時間感覚も失われていきました。結局、手術は3時間半くらいかかりました。時間がかかった原因は、皮膚が想像以上に身体に固着していて、なかなか剥がせなかったことと、皮膚が固くてあまり伸びず、縫合に苦戦したとのことです。1本の麻酔が切れる前に終わって良かったのかなと思います。

術後の患部を見て、縫合した糸や針まみれとはいえ、肉肉しい皮下組織がすっぽりと消え去っていたことの感動はひとしおでした。

とはいえ、3時間半身動きせず腰と腕の痛みは相当だったので、キツかったことランキング第2位の出来事となりました。

入院19日目【一般病棟6日目(手術後)】(意識10、身体3)

残念なお知らせなのですが、手術後の左脚には見慣れた管と吸引装置がついています。縫合した部位を、身体に定着させる目的で、一週間ほど吸引装置を使って圧着を試みるとのことです。『そのほうが治りが早いし、綺麗になる』と言われたら仕方ありません。結局、シャワーはまた一週間くらいお預けとなり、少なからず気持ちは落ち込みます。

また、麻酔が抜けきるまで時間がかかるとのことで、病室に戻ってから安静します。

夕食は普通に出るので、下半身の感覚が薄いなかでとる食事に不思議な気分を味わいます。その後、就寝までまったり過ごしていると、担当医数名が病室に来ました。麻酔直後は排尿したい感覚が失われがちで、膀胱に尿が溜まっていることが多いとのことで、エコー検査みたいな装置で膀胱の尿量を確認されました。すると、相当量溜まっていることがわかり、『申し訳ないけど、一晩くらいはもう一回尿道にバルーンを挿入しますね』と穏やかでないことをサラッと言われます。慌てて、「たぶん自力で出せます!」と伝えて、医師の皆さまには退室してもらい、排尿欲はないものの無理やり尿瓶に出そうとしてみたら、確かにとんでもない量の尿が出ました。

400mlくらい溜まった尿瓶を確認したお医者さんたちは『大丈夫そうですね。』と言って、尿道へのカテーテル再挿入を避けることができました。

これで落ち着いたせいなのか、徐々に脚の術部の痛みを感じるようになってきました。さらに、発熱して、あっという間に40度くらいに達し、術部の痛みも相当なものになっていたので看護師経由でお医者さんに相談します。すると、発熱は術後の必要な反応とのことで、解熱剤を飲まずに熱が下がった時間を教えてほしいという指示と、強力な痛み止めを処方されました。

発熱でボーッとしながらも、いつも通り睡眠薬を入れて寝ます。薬のおかげで痛みはあまり感じることがなく眠りにつきます。途中何度か目覚めましたが、どうも深夜0時過ぎくらいには熱が引いた感覚がありました。

入院20〜22日目【一般病棟7〜9日目】(意識9、身体3)

朝の検温時には、熱は引いていました。痛み止めの薬がよく効いているようで、術部の痛みはあまり感じず、気持ちは穏やかではあります。しかし、どうにも食欲が湧きません。

ここで、病院での食事について話しましょう。
ICU入院時に人工呼吸器を抜管してから食事が再開されましたが、基本的に「主食・主菜・副菜・デザート」という構成です。しかしながら、私は腎臓の調子が良くないため、タンパク質や塩分の摂取量に制限がありました。

主食は基本的にお粥です。お粥にも程度があると思いますが、私に与えられていたものは全粥と呼ばれる、トロトロというよりサラサラに近く、ご飯とは似ても似つかない代物です。ご飯は固めが好みな私にとって、雑炊ならまだしもお粥は全く魅力的ではありません。これが毎食180g出てきます。

主菜・副菜はそれ単体であれば十分に美味しいものが出てきます。タンパク質摂取量に制限があるとはいえ、鶏肉・豚肉・魚などを使った主菜もよく出てくるため、結構楽しみではありました。

ところが、塩分摂取量にも制限あるとおり、全体的に薄味です。主菜・副菜単品で食べる分には十分旨味を感じられる味付けではありますが、シャバシャバのお粥180gを賄えるほどの強い味ではありません。そのため、全くといっていいほど、ご飯(お粥)が進みません。

これが地獄の苦しみでしたね。必要な栄養、特に炭水化物によるエネルギーを身体を欲しているのに、お粥が美味しくなさすぎて食が進まず。頑張って食べ進めても180gのお粥は主菜・副菜の消費スピードに対して全然減らず、視覚的にも追い込まれて、食事が全く楽しくありません。

病院での食事は治療の一環であると受け止めていても、このお粥攻めは本当にツラかったです。キツかったことランキング5位です。

一方で、なぜお粥を食べさせられているかというと、恐らく単純に胃腸の負担を考慮してのものだと思います。お粥地獄に1週間以上苦しんだあと、「お粥が全然食べ切れない」旨を看護師さんやお医者さんに相談したところ、タンパク質オフの特殊な白米があるようで、そっちに切り替えられるとの話を知りました。硬さが普通の白米であれば余裕で完食できます!と必死で伝えて、栄養士さんとも相談してお粥を変更するとのことになりました。

これで万事解決!かと思いきや、術後明けはいつも以上にお腹がすきません。

基本的に病室のベッドの上に1日中いる生活を送っており、運動量は極めて少ない状況です。当然消費カロリーも少ないでしょうし、お腹ペコペコに感じるほどの空腹状態になったことは1回たりともありません。とはいえ、1日トータルで2000kcalも摂取しないような制限のある病院食であれば、十分に完食できるだろうと思っていました。

食欲がわかないどころか、身体のだるさや眠気もいつも以上にあります。これらのことは、もちろん看護師さんやお医者さんにも報告していますが、術後の反応としてやむを得ないものかなといった様子で、特に具体的な治療・施術はありませんでした。

だるくて眠いといっても、ICUで人工呼吸器挿入時とは比べ物にならないほど身体は元気で、病床ではいつもどおり、スマホでYouTubeや映画を見たり、Switchでファイアーエムブレムの続きを遊んだり、それらに疲れたら横になって音楽を聞きながらボーッとしたりと、気ままに過ごしていました。

術後2〜3日はそのように過ごしていました。

入院23日目【一般病棟10日目】(意識8、身体3)

身体の気だるさが減るどころか増しており、さらに吐き気も催すようになってきました。食欲は皆無で、この日は昼食にハンバーグが出ましたが、一口も食べられませんでした。これはまずいと思い、妻に連絡して大量のゼリー飲料を持ってきてもらうようお願いしました。一応、念のために固形の食事ができない分、ゼリー飲料を飲んでもいいかと看護師さんに相談すると、『タンパク質が少ないものなら大丈夫』と言われたので、ウィダーのようなものやミニッツメイドの朝りんごみたいなタイプのものを飲んで凌ぎます。

一方で術部はあまりにも痛みを感じないので、痛み止めが相当効いている体感があります。これらの事実から、痛み止めが身体にあまり合っておらず、副作用として気だるさや吐き気が出ているのでは?と推測しました。

このことを看護師さん経由でお医者さんに伝えると、何がどう伝わったのか、念には念を入れてのためなのか、ICUに移動してX線検査を受けることとなりました。

気が確かな状態で行くICUは、あまり気分の良い場所ではなく、道中ですれ違うベッドのうえで寝ている意識のない患者さんはオブラートに全く包まない言い方をすると死体と区別がつかないような顔色の悪さで、自分もそっち側の人間だったにもかかわらず、立場が変われば考えも都合よく変わるものだなあと思いつつ、やはり気分は優れません。それに、いまは吐き気もあって普通に気分が優れていません。

そのようななか、胸部X線写真の撮影にうつるわけですが、普段も健康診断等で胸部X線写真を撮るときは、大きな板状の装置に胸をつけるような形で立って撮影するかと思います。しかし、左脚が全く使えない状態で、力を失った上半身と右脚で体重を支えながら装置にもたれかかることすら、非常に厳しく、倒れそうになりながらもどうにか撮影を終えました。この時点でげっそり。

結局、X線では何も見つからず、薬が合わなそうなので別のものに変えてもらえることになりました。

その後、病室でぐったりとして、昼寝をしていると、栄養士さんが部屋にやってきていました。

何か色々相談に来ていたようですが、あまりにもぐったりしていて会話する気力もなかったので、「はい」「それで大丈夫です」などと最低限のやり取りで済ませてしまいましたが、どうやら食事摂取量が減っているので、もっと量を減らしつつ食事しやすい別メニューに変えるみたいな話でした。私の希望としては、お粥を白米に変えてもらって、痛み止めを変えれば、普通に食欲戻って量も食べられると思っていたので、全く本意ではなかったのですが、そういった背景を説明して細かい要望を伝える気力がなくて、言われるがままにしてしまいました。

この日は金曜日で、いったんメニューを変えると、週明け月曜の昼食まではその軽量メニューが継続されるということを後で知って、ちゃんと話しておけばよかったと後悔したものでした。

ということで、痛み止めを変えると、見違えるほど元気が湧いてきたので、痛み止めの種類が原因だったようです。一連の痛み止めが身体に合わない問題は、食事などの周辺事情も絡めてキツかったことランキング10位の出来事です。

入院24〜25日目【一般病棟11〜12日目】(意識10、身体3)

一晩明けて、前日までの数日間とは見違えるほど体調が良く、ファイヤーエムブレムをとても楽しくプレイできました。土日を利用して、1回目の全クリを果たしました。ファイヤーエムブレム風花雪月は周回前提のストーリーになっているため、2周目に取り掛かります。ちなみに、1周目は赤のルートで、2周目は青のルートにしました。

軽量メニューの食事では、昼食にそうめんが出ます。約1ヶ月ぶりの麺類に歓喜しましたし、実際非常に美味しかったです。特に甘じょっぱい麺つゆが美味しすぎて、毎度飲み干してました。(多分塩分摂取量等は汁完飲も見越して設定されていると信じて)
そうめんは病院食美味しかったものランキング1位です。

土日は日勤のお医者さんはお休みで、毎朝の研修医による診察はありません。一方で、人工透析は必要があれば実施可能です。研修医が来ないことと、病院内にいる人が若干少ないことから週末を感じることができ、一般病棟に移ってからも曜日感覚が失われることはなかったです。

これといって記憶にも記録にも残るような出来事はなく、やや量の少ない病院食(そうめんがあるから美味い)に舌鼓を打ちながら、足りない分を余ったゼリー飲料で補う生活をしていました。

一見、快適に見える入院生活ではありますが、ここは病室。それも一般病棟の相部屋です。同室の患者さんはいずれも後期高齢者確定のおじいちゃんたちです。

ICUに入るほどではないが入院を要する患者さんなので、意識はあるのですが、ナチュラルにボケています。隣のおじいちゃんは深夜になると「おーい、けんすけー!(偽名)」と、恐らく息子さんらしき人物の名を呼び続けます。

「あれ、いないのかなあ?」「おしっこ行きたいです!」「漏れちゃうよー」「(廊下を歩く看護師の足音に)誰かいるのかな?なんで来ないんだろう?おーい、けんすけ〜!」「(勝手に動けないようベッドに固定されており)あれ?なんで動けないんだ。おーい!誰かー!来てくれませんかー!」というようなことを深夜3時とかに延々やってるわけです。ナースコール一発で解決するのに、ここが病院だと認識できてない様子で、もう代わりに呼んでやろうかと思いましたが、こちらも気力がないので我慢して放置。みたいな深夜から朝方にかけて、ほぼ毎日似たような騒ぎが繰り返されてゲンナリする日々でした。

向かいのベッドにいる別のおじいちゃんは、入院3日目だそうで看護師さんに向かって「おうちに帰りたいよ〜」とメソメソと泣いてます。こちとら25日家に帰ってないし、25日も3歳の子どもに会えてないんですけど!!!!とか思い、普通にイライラしてしまいました。

斜向かいのおじいちゃんはスマホの操作が下手っぴで、しょっちゅう動画を爆音で鳴らします。その動画が「おじいちゃん、元気?家に帰ったら一緒に遊ぼうね!」とかいう5歳くらいであろう、お孫さんのメッセージなわけです。その動画を何回も見たくなる気持ちは分かるが、爆音は勘弁してくれ、というストレスフルなお部屋なのです。

これらは地味にメンタルにダメージ喰らううえ、一番寝てたい深夜3〜5時くらいに起こされるので、キツかったことランキング第8位の出来事でした。

入院26日目【一般病棟13日目】(意識10、身体3→5)

術後1週間が経過したということで、左脚の術部を覆っていた陰圧閉鎖療法装置類を取り外すことになりました!傷口は一応ふさがったものの、まだまだ傷口の周囲に傷創も多く残っており、そのままというわけには行きません。抗菌の軟膏みたいなものを特殊なガーゼに塗りつけて、包帯で巻くという作業を毎日行うよう指示されました。これが自分でできないと退院はできないとのことでしたが、特段難しい作業ではなかったです。

また、自分でまじまじと術部を観察することができるようになり、記録のためスマホで写真を撮ったりしました。改めて当時の写真を見ると、ホチキスの針みたいなもので30か所も留められており、それ以外にも黒い糸状のもので何箇所も玉止めされているような箇所があり、よく言う「何針縫いました」みたいな基準でいうと、50針くらい縫っているのかな?とか思いつつ、何より傷口が黒ずんでだいぶグロいので、果たしてどこまで元通りになるのか見通しが立たないレベルでした。とはいえ、今後リハビリを頑張れば普通に歩けるし、走れるようにもなるといわれているので、全く悲観的な気持ちはありません。

そして左脚につながっていた管や装置が外れたということは、シャワーを浴びれるということです!しかし、これまた病院謎ルールの一つである『シャワーは週に2回まで』が発動し、週に2回しか行けないと言われました。一方で、担当医からは『患部を清潔に保つように』との指示が出ており、『毎日ガーゼと包帯を張替え』する際に、付着した軟膏を洗い落とすことができません。

ということで、お医者さんに「シャワー毎日浴びれないと言われました」と相談したところ、『なんだそれ、ケチ臭いな』ということで、お医者さんの力が働いたためか、毎日シャワーに行けることになりました!とてもハッピーなことです。

手術前に1度だけシャワーできましたが、その時以上に垢や新陳代謝した皮膚のカスなど頑張って削ぎ洗いして、シャンプーもゴシゴシと頭を洗っていました。久々に自分でシャンプーしたためか、抜け毛がとても多かったです。多かったというレベルではなく、無限に頭髪が抜けて明らかにおかしいです。特に後頭部の抜け毛が著しく、なんでだろうと後頭部を探っていると、かさぶた状になっている部位を発見しました。

といっても自分では視認できないので、シャワー後に看護師さんに報告します。写真撮ってお医者さんに報告するとのことで、何枚か撮影していきましたが、その後頭部のかさぶたの件については特に言及も処置もなかったです。

自分自身もかさぶたができるほどの衝撃を受けた記憶はまったくなく、記憶がない期間に負った傷であれば、枕に血の跡が残るはずで、ここまで気づかないことあるかな?といった感じで、いつどこでどうやってかさぶたができるほどの傷を負ったのかだいぶ謎です。

その影響のためか、かさぶたができた部位付近から髪の毛がすっかり抜け落ちてしまい、これは退院後1年近く経過した現在でもハゲたままです。幸いなことに周囲の髪の毛に隠れて、何もしていなければ誰にも見えないので実質無害ではあるのですが、後遺症のひとつですね。。

入院27日目【一般病棟14日目(前半)】(意識10、身体5)

毎朝の研修医による診察の時間に、それは唐突に告げられました。

『もう透析必要ないんで、カテーテル抜きますね〜』

本当に、『〜』をつけたくなるくらい軽いテンションで告げられました。透析が必要ないということは、腎臓が概ね回復したことを意味し、カテーテルを抜くということは、今後人工透析生活を送らずに済むことを意味します。つまり、非常にというか大変というか、入院史上最高に嬉しい出来事なのです。

一方で、冷静に考えると、2日前まで透析を受けていたような人間なのに、本当に十分に回復したのか?透析なしとはいえ、今後の生活にどんな影響があるのか?制限はあるのか?と矢継ぎ早に疑問が浮かびます。「めちゃくちゃ嬉しいのですが、いくつか質問がありまして、、」といった調子で研修医の方に疑問をぶつけます。

一般病棟に移ってすぐくらいから、こんなに頻尿だったかなあ?と思うくらいおしっこは出ていたので、排尿量は恐らく基準値に達していたと思います。また、尿内のクレアチニン等の老廃物の含有量も徐々に増えていたようで、綺麗に右肩上がりに回復していて、カテーテル抜管時点では『いまは50代の腎臓です』という言い回しで、8割程度回復しているとのことです。なので、もう透析は必要なく、入院中は血液や尿検査による経過観察のみでOKとの診断だったのです。

一般病棟編では言及していませんでしたが、首元にカテーテルが常についていることによる不快感は常にありました。ましてや2週間以上前に処置した部位で、防水のためのテープなどガビガビになって張り替えたり、張り替える際にテープののり部分が皮膚に残るも場所が場所だけに綺麗にできず、カテーテル抜管前の2〜3日間は痒みもひどくて、ストレスがMAXになっていたところでした。

それら不快感を一掃できるカテーテル抜管は非常に嬉しい出来事だったわけです。

カテーテル抜管は挿入時と打って変わって、それほど大変な処置ではなく、研修医の方がその場で処置してくれました。静脈とはいえ首元の太めの静脈に穴が空いている状態なので、止血は強めに念入りに行われます。ピンポイントで押さえつけられて、かなり痛かったですが、そんな痛みなどどうでもよく思えるほどに嬉しくて嬉しくて、このとき10分くらい研修医さんとお話したはずなのですが、会話の内容を一切覚えてません。

とにかく、透析用カテーテルが抜けたことで、身体に繋がっている管はいよいよ残り1本。点滴用のもののみとなりました、とか言っているのも束の間。点滴も不要になったとのことで、点滴用カテーテルも抜管されました。処置は看護師さんが行ったはずです。

あれだけ身体の自由を妨げていた管類が、この2日間で一気に無くなり、27日ぶりに自由の身となったのです!

重ね重ねになりますが、本当に嬉しかったですね。

というわけで、約2週間にわたる首元カテーテル生活は、キツかったことランキング第4位です。

入院27日目【一般病棟14日目(後半)】(意識10、身体5)

ということで、ついに退院に向けた本格的なリハビリが始まりました。

病院内のリハビリセンターに車椅子を押して連れて行ってもらい、リハビリ師さんの指導のもと、左脚の可動域を広げるトレーニングと、歩行器を使った歩行訓練を行いました。

自分の身体能力に関する問題は大きく以下の2点です。
・左膝が150度くらいまでしか曲げられない(膝を伸ばすことができない)
・全身の筋力の低下

膝に関しては、1ヶ月近くほぼ固定されていたため、筋力・関節ともに固まっているような状態だったかと思われます。また、皮弁手術の影響で皮膚が突っ張っているような状況で、物理的に伸ばすことが難しいようです。周囲の筋肉や関節をほぐしながら、動く頻度を増やして皮膚が馴染むようにしていきます。

筋力の低下に関しては、重篤な症状に陥ると、人間は筋肉まわりではなく症状を治すことにエネルギーが注ぎ込まれるようで、一気に筋力低下することはやむを得ないことだそうです。そこで、歩行器を使って病院内でできることは動き回ることが許可され、動くなかで筋力・体力を取り戻す方針となりました。また、歩行器を使えるようになったことで、トイレに行く際にいちいち看護師さんを呼ばずとも、自力でトイレに行けるようになったのが大きいです。

また、本格的なリハビリが始まったこともあり、お医者さんからは睡眠薬をなるべく服用しないようにとの指示も出ました。一応、頓服薬として処方はされているのですが、癖になると離脱するのも大変みたいな説明を受けて、素直に納得して睡眠薬の服用を止めました。なので、日中にできるだけ歩行器を使って動き回って疲れておいたほうが眠りやすいだろう、ということで可能な限り動き回れというのがお医者さんとリハビリ師さんからの指示でもあります。

今回の病気のなかで、唯一といってもいいくらい、自分の努力量で退院時期を早めることができると思い、結構熱心にリハビリに勤しんだものです。

入院28〜32日目【一般病棟15〜19日目】(意識10、身体6〜7)

具体的な施術や治療が無くなったため、日々のスケジュールがローテーション化していきました。

6:00 起床
6:00〜7:00 看護師さんによる検診
8:00 朝ご飯
9:00頃 日勤の看護師さんへの引き継ぎ
10:00頃 リハビリセンターでトレーニング(30分)
12:00 昼ご飯
16:00頃 シャワー(30〜60分)
17:30頃 夜勤の看護師さんへの引き継ぎ
18:00 夕ご飯
21:00 消灯
21:00〜25:00 眠くなるまでスマホ見ながら寝落ち

といった感じで、空いた時間は
・病室でYouTube、Switch、音楽聞く、映画鑑賞
・病棟内を歩行器や松葉杖でうろうろ
・談話コーナーで家族や友人と電話
などしていました。

ちなみに、このあたりからグルメ系の動画をとにかく見たくて、SUSURU TV.という『毎日ラーメン健康生活』を謳うチャンネルをよく見ていました。「劇症型溶連菌感染症で入院生活」の対義語は『毎日ラーメン健康生活』だろうなと思いつつ、退院したら行きたいラーメン屋さんをリストアップしたりしながら、楽しんでいました。

入院33〜39日目【一般病棟20〜26日目】(意識10、身体7)

いま振り返ると、急速に体力を取り戻したなと思うのですが、当時は必死でした。

退院後に必要な身体能力として、
・段差の上り下り(通院のためバスへの乗車・降車を想定)
・長時間立つ(バスで座れなかった場合を想定)
・一定距離の歩行(通院中の移動を想定)
はできるようにならないと思ってました。

段差の上り下りはリハビリセンター内でも指導があり、トレーニングを積めていたので不安はありません。長時間立つことも、何とかなりそうな感覚あり。しかし、一定距離の歩行がどうにも病院内では実践が難しく、結局退院前に最長で歩行した距離は病棟の周囲をぐるっと1周200〜300mくらいです。

日に日に左膝の可動域も広がり、当初は150度くらいしか曲がらなかったのが、最終的には170〜180度くらいとほぼ伸ばせるようになってきました。

また、松葉杖を使った歩行訓練も始まり、当初は無事な右脚頼みだったのですが、左脚も地面につけられるようになり、多少なりとも体重をかけられるようになり、だいぶ歩きやすくなったものです。

しかし、左足首と左膝関節部の痛みが強かったです。歩行訓練で体重をかけないようにすると、松葉杖を支える腕がきつくなり、体重をかけると足首と膝が痛むという二重苦です。足首と膝の痛みについてはリハビリ過程でやむを得ない痛みのようで、特に対策もできずに我慢しながら歩いていました。

痛みがありつつも、日々歩く量やペースも上がっている感覚があり、リハビリの一環として、病院内のコンビニ(ローソン)に行って買い物することができました。1ヶ月ぶりの主体的な買い物は嬉しく、危うく「からあげくん」を買いそうになるもさすがに自重して、念願の飲むヨーグルトとヤクルトに近いピルクルナイトケアを購入しました。何気ない買い物ですけど、嬉しかったですね。

そのような日々を送っていると、具体的な退院の日時が決まりました。これも唐突に決まったのですが、ついに退院です。

入院40日目【一般病棟27日目】(意識10、身体7)

研修医による毎朝の診察も最後となりました。退院後の治療方針についていくつか疑問解消を行いました。

Q.腎機能の経過観察は具体的にどうしていくか?
A.特になし。健康診断の尿検査で問題ない。

Q.左脚のリハビリはどう行っていくか?
A.基本的にひたすら歩き回れば、自然と良くなる。とにかく、動いてほしい。

Q.今後の左脚の治療はどう行っていくか?
A.一旦1週間後に来院して、抜糸を行う。その後は患部の状態次第だが、月に1回程度の診察で問題ないと考えている。

Q.退院後の食事制限はあるのか?
A.特にないが、常識の範囲内での節制は必要。現状は50歳の腎臓だと思って生活して。

Q.ではラーメン二郎を食べても問題ないか?
A.本当に食べたいと思うなら問題ない。

といった感じです。ラーメン二郎のくだりを聞いたら苦笑いされましたが、『快復した証拠』とのことです。

そうして、午前中に妻が迎えに来て、病室内に持ち込んだ様々な荷物を持って、いざ退院です。

といっても、そのまま帰宅するわけにはいかず、入退院会計窓口にて精算を行う必要があります。自分が入院していた病室から、精算窓口まで結構の距離があり、いきなり術後自己最長歩行距離を記録してしまいます。右脚は痛いし、それをかばって松葉杖を持つ両手首も痛くなる満身創痍な状態ですが、限度を越えてこその超回復(半分不正解)と信じて、頑張って自力で移動します。

精算を終えて、この日は実父に車で迎えに来てもらって、帰宅しました。

帰宅後、昼飯の時間です。退院後の一食目は、入院中から決めていて、バーミヤンのチャーハンにしました!もちろん、本当はちゃんとした中華料理屋で出来立てのチャーハンを食べたかったので、すかいらーくの宅配を利用してチャーハン1人前を注文しました。

病院食のおかげで食が細くなっていたので、チャーハン1人前を食べ終える頃には相当満腹でした。大満足。

退院後のエピローグ的な

退院後の夜、保育園から帰ってきた我が子たちと40日ぶりに再会しました!入院中もときどきテレビ通話していたので、『誰なの?』みたいな展開はなく、ちゃんと喜んでくれました。仕事の代わりをしてくれる人はいくらでもいますけど、我が子の父親の代わりは誰にも務めることができません。やはり、子どもとの時間は貴重で、今後の人生で最も大切にしないといけないものだと痛感した次第です。

リハビリと称して、散歩もとい外出を頻繁に行い、退院して4日目くらいには4〜5kmくらいは断続的に歩行できるくらい回復してきました。さすがに4〜5kmも歩くと、身体のあちこちが痛くなって翌日は動けなかったので長距離歩くことは無意味だと思い、頻度を多くするようにしました。

退院後1週間くらいで抜糸を行ったことで、より皮膚が伸びるような感覚で、歩きやすさも倍増しました。左脚が伸びることで、両手で松葉杖を使うまでもなくなり、外出時は片手のみ松葉杖のスタイルでの移動が増えました。また、自宅内であれば、うまいこと家具や壁を伝って、杖なしでも移動できるようになり、生活がだいぶ楽になりました。

リハビリといってもできることは1日数十分から1〜2時間程度の散歩のみで、やることもなく暇だったので退院後半月程度で復職します。元々リモートワーク中心だったので身体面への負担は少なかったです。お医者さんからはむしろ積極的に通勤してほしい、とも言われてましたが、身体の調子抜きにしてリモートワークは楽です。

退院後1ヶ月くらいすると、松葉杖なしで歩けるようになり、杖を病院に返却することにしました。月1回の診察でも、経過良好とのことではありましたが、まだまだ見た目は整備の行き届いてないアスファルトの道路の割れ目くらい傷口に深めの溝ができているような状況で相当にグロめですが、確かに傷口が小さくなっているのも明らかに分かります。一方で、傷口の縫合部に近い皮膚の一部は死んでしまっており、ダメになった部分は切除しました。(無麻酔で痛みもなくハサミで切る程度)

そのダメになった部分が皮膚再生を妨げていたようで、ここからの1ヶ月で傷口がみるみる埋まっていきます。松葉杖なしで歩いているうちに、徐々に走ったりもできるようになります。退院2ヶ月後くらいには傷口がほぼ完全に埋まり、退院後3度目の通院時には『今日で終診です』と、経過観察も終了しました。

というわけで発症から3ヶ月半、退院から2ヶ月で事実上完治しました!

後遺症など

退院から半年後くらいに受けた健康診断の尿検査の項目はオールOKで、腎機能も全く問題なく回復していました。
また、退院直後はあり得ないくらい歯が知覚過敏になっていたのですが、歯医者さんに勧められたシュミテクトを使って歯磨きしていたらいつの間にか治っていました。

左脚の傷跡は未だ生々しく残っており、何か特殊な治療を受けない限りは生涯残るものかなと思います。なので、ハーフパンツなど膝裏が露出する服を着にくくなりました。(後遺症その1)

後頭部の脱毛している部位もそのままです。こちらは幸いにも周囲の髪の毛に隠れる部位のため特段支障はないのですが、後遺症といえば後遺症なのでしょう。(後遺症その2)

左脚を手術した結果、左脚末端にかけて血行が悪くなったようで、とてもむくみやすくなりました。お医者さんからも『左脚の血行が悪いので、何か怪我をしたり、水虫が発症したりしたら、治りは遅くなるので気をつけてください』と言われていますが、現状さほど実害はありません。(後遺症その3)

入院後は、以前に増して物忘れが酷くなった気がしますが、これは単なる加齢の影響なので後遺症ではないでしょう。

また、お箸やスマホなど指先を使って物を持つ際に、誤って落とすことが増えた気がしますが、これも加齢の影響かなと思っていて後遺症ではないと思っています。

というわけで、実質的にはほぼ無傷で生還できたという顛末です。

入院費用など

1ヶ月半の入院生活で、食事代はバスタオル代など全て込み込みで額面の合計金額は約700万円となりました。

3割負担なら約210万くらいになるところですが、高額療養費制度のおかげで、窓口で支払った金額は約20万程度でした。

さらにそこから組合の何かの制度のおかげで10数万円のバックがあり、入院中の食事代やバスタオル代などと同程度の金額が実費負担額となり、何なら普通に外食など多いいつもの生活よりも割安で過ごしたことにもなります。

また、入院してから職場復帰するまで2ヶ月間、丸々欠勤とはならず、組合の制度(国の制度?)にあった「傷病手当金」なるものを申請することで、当該期間は給与の3分の2を補償してくれて、有給など消化することなく有給みたいな感じでお金を貰えました。

つまり、経済面では全く問題ないどころか、働かずしてそこそこのお金が貰えたと解釈すると、金銭面ではややプラスになってると言っても差し支えないのかなと思います。

医療保険は入ってなくて、普通に会社で入らされる健康保険の制度や国の制度を使ってこれなので、普通に日本良い国だなと純粋な気持ちで思いましたよ。

まとめ

生きてて良かったよ!