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日本初のプロ野球選手「ジャップ・ミカド」とは誰か?

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「日本にプロ野球が誕生したのは1934年。
ところが、その20年以上も前にプロ選手がいた、
しかもアメリカに。
その名は『ジャップ・ミカド』ー。」

こんな帯が書かれた本を見つけてしまいました。

「ジャップ・ミカド」の謎―米プロ野球日本人第一号を追う

日本初のプロ野球チームの誕生は1934年に大日本東京野球倶楽部(東京巨人軍、後の読売ジャイアンツ)が設立されたことが起源とされています。

2年後に、初のペナントレースが開催されます。

日本人メジャーリーガーの誕生は1964年、サンフランシスコ・ジャイアンツでデビューしたマーシーこと村上雅則が日本人初だったはずです。

にもかかわらず、この本には「日本人初のプロ野球選手」「米プロ野球日本人第一号」なんて書いてあります。

これが事実なら、とんでもないことです!

村上雅則の存在を知った時ですら相当驚いたのにもかかわらず、その50年以上も前にアメリカでプロ野球選手をしていた日本人がいたなんて信じられません。

今回は『「ジャップ・ミカド」の謎―米プロ野球日本人第一号を追う』の書評記事を書きます。

日本人初のプロ野球選手はアメリカで誕生していた?!

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本書の表紙の一番右に映る人物が、「ジャップ・ミカド」その人です。

明らかに欧米人に混ざって、東洋人の顔・体格をした人物であり、プロ野球選手らしき格好をしていることもハッキリとわかります。

「ジャップ・ミカド」が活躍していた時期は、1914年のことです。

所属チームは1912年に結成された「オール・ネイションズ」という球団です。

どんな球団だったかというと、

日本人を初め、米国人、黒人、インディアン、フィリピン人、伊太利人、メキシコ人等の在米外国人で、代表的な選手より成った、いわゆる混成団である。

とのことです。

オール・ネイションズは、アメリカ各地を巡業して、その土地土地でプロ野球チームや大学野球チームと対戦するという興行を行っていました。

このようなスタイルで興行を行うチームは数多く存在し、チームがあって選手に給料を払うという点では間違いなくプロ野球チームと言えるでしょう。

それらとは別にメジャーリーグがあります。

1914年というと、タイ・カッブが全盛の時代で、またベーブ・ルースがメジャーデビューした年でもあります。

日本独立リーグでプレーする選手もれっきとしたプロ野球選手であり、アメリカのマイナーリーグ・独立リーグの選手もプロ野球選手と言えましょう。

メジャーリーグに対し、オール・ネイションズは現代の独立リーグのチームのような存在と認識して良さそうです。

※ただしリーグ戦などは行っていなかった模様です。

ジャップ・ミカドはアメリカプロ野球初の日本人選手でありますが、メジャーリーグ初の日本人選手ではないということです。

これまでに村上雅則の紹介も「日本人初のメジャーリーガー」と言っていたことにも納得です。

なんだ、そんなものか、とガッカリするのは早いです。

オール・ネイションズとはどんなチームか?

オール・ネイションズは、その後ニグロ・リーグ最強と唄われたカンザスシティ・モナクスへの系譜を継ぐ由緒正しきチームです。

カンザスシティ・モナクスは、黒人初のメジャーリーガーとなるジャッキー・ロビンソンや、ニグロ・リーグ通算2000勝のサチェル・ペイジが所属していたチームと言えば、その強さは伝わるでしょう。

V9時代の巨人並みの強さと言って差し支えありません。

オール・ネイションズに所属していた選手を紹介します。

エースは、ジョン・ドナルドソン、ホセ・メンデスです。

ジョン・ドナルドソンは左腕投手で、野球殿堂入りを果たしたジョン・ヘンリー・ロイドは、対戦したうちの最高の投手として、このドナルドソンの名を挙げたそうです。
投手としてだけでなく打撃も非凡なものがあり、1926年には22勝・打率4割4分を記録しています。

オール・ネイションズの創始者であり、後のカンザスシティ・モナクスのオーナーでもあったJL・ウィルキンソンは、サチェル・ペイジと比べてドナルドソンはどうか?という質問に対して
「二人とも、大変な投手だったよ。同じだったと言っておこうか。違いはドナルドソンが左投手だったということだけだ」
と語ったそうです。

ホセ・メンデスはオール・ネイションズ加入以前にニグロ・リーグで62勝15敗という記録を持っていて、その後モナクスでの活躍、故郷キューバリーグでの圧倒的な活躍もあって、2006年のアメリカ野球殿堂入りを果たしています。

その他にもクリストバル・トリエンテ、ビル・ドレイクという黒人選手たちに、後にメジャーリーグに移籍するヴァージル・バーンズ、アートダンパーら白人選手が所属し、「どの大リーグのチームと対戦しても、五分五分にやっていける」実力のあるチームだったのです。

そんなチームのショートまたは外野を守っていたのが、「ジャップ・ミカド」なのです。

決して数合わせで所属していたわけではないことがわかります。

ジャップ・ミカドとは誰か?

当時の日本野球は、『坂の上の雲』で正岡子規が野球に打ち込んでいる様子からも、アマチュア間で遊びの一つのように行われているレベルです。

その後学生間で野球が広まっていって、第一回の夏の甲子園が開かれたのが1915年、初の早慶戦が行われたのは1903年のことです。

早稲田大学野球部は1905年に日本野球界初のアメリカ遠征をしています。

1911年にも第2回のアメリカ遠征が行われ、この時の遠征メンバーの一人であった「三神吾朗」がジャップ・ミカドその人であると言うのです。

余談ですが、早稲田大学の東伏見キャンパスには「三神記念テニスコート」があります。

この三神の名は、「三神吾朗」の実兄である「三神八四郎」の名から取られたものです。

三神吾朗はアメリカ遠征の後、1912年にノックスカレッジという大学に編入し、ノックスカレッジ野球部ではキャプテンを務めるに至ります。

1916年にイリノイ大学大学院に入学し、卒業後は三井物産の海外部門で活躍したそうです。

三神吾朗が早稲田大学野球部の第2回アメリカ遠征メンバーであったことも事実、ノックスカレッジ野球部に所属していたことも、イリノイ大学に進学したことも事実。

そして、1912年に産声を挙げたオール・ネイションズに「ジャップ・ミカド」が所属していたことも事実で、三神吾朗がアメリカにいた時期とオール・ネイションズの活動期が見事に一致するのです。

一致するのですが、ジャップ・ミカド=三神吾朗と決定付ける証拠が見つからないのです。

真実を追い求めて10年以上にわたり徹底的に調査する究極の取材

本書の著者である佐山和夫さんは1983年に初めて「ジャップ・ミカド」の名を知ります。

本書のカバー写真にもある、オール・ネイションズの選手たちの写真を見ての驚きが本書にも記されています。

1912年といえば、大正元年である。
これは、一体、本当なのか。
ここにいるジャップ・ミカドなる選手が本当に日本人なら、これは特筆すべきことではないか。
なぜなら、彼こそが、日本人として初めてプロ野球の世界に足を踏み入れた男ーつまり、最初のプロ野球選手だったことになるからだ。

ここから、佐山さんの飽くなく探究心のもと、ほとんど手がかりらしい手がかりがないところから、全米を駆けまわり、一つ一つ真実に迫る様子は必見です。

ジャップ・ミカド=三神吾朗を裏付ける決定的な資料とは何か?

なぜ三神吾朗はアメリカ野球を志したのか?

なぜ今日に至るまで日本初のプロ野球選手であることが知られていないのか?

数々の疑問に対し、取材とはこうあるものだ、という姿勢・心がけを教えてもらった気持ちになります。

「ジャップ・ミカド」の謎の鍵を握る人物にまつわる奇跡も相まって、この物語は完結します。

本書を読み終えた時は感動のあまり、涙が出そうでした。

佐山さんが、「ジャップ・ミカド」を本格的に調査しなかったら、日本人初のプロ野球誕生の歴史は陽の目を見ることなく、闇に葬り去られていたことでしょう。

ここまで重厚なノンフィクションに出会えたことが、わたしにとってもこの上なき幸せです。

おすすめせざるを得ない一冊です。

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