自分のの中で野球に関する最も古い記憶は、巨人の巨漢の右バッターがサヨナラホームランを打ったものだ。恐らく1994年9月17日対阪神戦でデーブ大久保が放った涙のサヨナラホームランではないかと思う。
1995年は阪神淡路大震災をきっかけに「がんばろうKOBE」のスローガンを掲げて戦ったオリックスナインの姿は、野球にまだハマっていない幼き自分にも浸透していた。その翌年、メークドラマを成し遂げた巨人に憧れ、1997・1998年の頃はタカラのプロ野球カードゲームにめちゃくちゃハマっていた。
このカードゲームはサイコロを2つ振って、出た目によってヒットやらホームランやら内野ゴロやら外野フライなど打撃結果が決まるルールだった。(※正確には簡易ルール)
例えば、サイコロを振って「1」と「2」が出た場合に、カード裏面の「1・2」の項目を見て、「ホームラン」であればホームラン、「右中間二塁打」であればツーベースといった感じで、得点を競うゲームだ。
そのなかでイチローは別格の存在だった。1997年版のイチローはヒット以上になりうるパターンは10通りあった。通常、一流の打者でもヒット以上が8通りという選手が大半だ。9通りあれば超一流。10通りは超一流を越えて殿堂入りレベルだった。もはや97年版イチローを持っていければ話にならず、別にオリックスファンでもないのに97年版オリックスを求めて近所のおもちゃ屋さんを巡る日々。かくして、97年版イチローを各プレイヤーがゲットすると、誰もがイチローを一番打者として起用。みんなが変わり映えしない打線を組むために、とうとうイチローは禁止!となる始末。
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1999年頃からプロ野球観戦にもハマりだすと、ますますイチローの凄さに気付いていく。まだ、インターネットが浸透していない頃なので、イチローの過去の成績はベースボールマガジン社のプロ野球カードを手に入れて見るか、図書館に行ってレコードブックを見るしかなかった。当時、イチローは5年連続首位打者を獲得していたのだが、レコードブックの歴代首位打者の項目を隅から隅まで見ても、イチローの5年連続が明らかに歴代最多であった。
カードで凄いと知り、記録で更に凄いと知った。ついで言うと、弟がイチローと同じ誕生日で、実家のマイカーは「イチロ・ニッサン」でお馴染みの日産車だった。
球団としては巨人を応援していたのだが、イチローは別格であり、東京ドームでのオリックス・日本ハム戦を現地観戦しに行ったものだ。しかも、その試合でイチローはホームランを打った!やっぱりイチローはカッコいい!好きな選手を通り越して、崇拝の対象になっていた。
そんなイチローが2001年より海を渡ってメジャーリーグに挑戦。毎朝のニュースでイチローの活躍を見聞きしてから学校に通うことが日課となっていた。一年目から最多安打、首位打者、盗塁王、そして未だにメジャーリーグ最多タイ記録であるシーズン116勝と快進撃を続けたチームの立役者としてMVP・新人王も獲得。この時はもうイチロー凄い!という感想ではなく、やっぱりイチローならメジャーでも普通に通用するよね!という感想だった。もちろん嬉しい気持ちとワンセットだ。
渡米4年目となる2004年、ジョージ・シスラーの持つシーズン最多安打記録を84年ぶりに更新。これにはさすがに驚いた、というよりはむしろ日本プロ野球の歴史に名を残す選手としてだけでなく、100年以上の歴史を誇るメジャーリーグの記録を塗り替えている姿に、崇拝の対象ではなく畏敬の念を抱く存在として認識するようになった。もはやイチローとは概念である。
しかし、2006年WBC。イチローは日本代表として出場すると、オリックス・マリナーズでは考えられないような感情・闘志むき出しのプレーを披露。韓国に2連敗した際には「僕の野球人生で最も屈辱的な日」と表現。それでも、準決勝で韓国を撃破すると、決勝ではキューバを破り初代世界王者に輝いた。
シーズン開幕前の3月に激闘を繰り広げていたにもかかわらず、好調を維持。2年ぶりのリーグ最多安打となる224本のヒットを積み重ねていた。
2009年の第2回WBCにもイチローは日本代表として出場。しかし、極度の大不振に陥り、ヒットが出ずにチャンスでも凡退、送りバントすら失敗と「ほぼ折れかけていた心がさらに折れた」と言うほど、全てが空回りしている状況だった。しかし、不振のイチローを支えるかのように、他のナインが奮闘。日本は決勝で再び韓国と対戦した。
同点で迎えた延長10回。ツーアウト1・3塁と一打勝ち越しの大チャンスで、イチローに打順が回ってきた。ファーストランナーが盗塁成功し1塁が空くも、韓国バッテリーはイチローとの勝負を選択。カウントツーツーからの8球目。甘く入った変化球を捉え、綺麗にセンター前に弾き返した。勝ち越しの2点タイムリー。本塁に送球されるのを見たイチローは、静かに1塁ベースを蹴って2塁に到達。大騒ぎの日本のベンチをよそに、塁上で特に何の仕草も見せずに淡々と進塁するイチローの姿はプロフェッショナルだった。
優勝後のセレモニー中には、伝説の「ほぼイキかけました」発言。イチローは凄い!本当に凄い!!と思っていたが、レギュラーシーズン開幕直前に胃潰瘍を患い、故障者リスト入り。さすがのイチローもひとりの人間であり、人並みにプレッシャーを受けていたのだと思うと、さらに親近感が湧いたものだ。
2010年、社会人になっていた私はゴールデンウィークの休暇に合わせて、海外旅行を計画していた。真っ先に確認したのはマリナーズの試合日程だ5月7日はセーフコフィールドで試合があるぞと。ということで、イチローを現地観戦することにした。
メジャーリーグの試合を見ることも初めてだったが、9年連続200本安打をマークしているスーパースター選手を生で見られる興奮は何物にも変えられない。
現地で感じたことは、イチローの人気の凄まじさだった。移籍の激しいメジャーリーグにおいて、そもそも9年もの間、同じチームに在籍している選手は少ない。さらにイチローはその間、常に200本以上のヒットを打ち続けていた。人気が無いはずがない。イチローが打席に立つと、自然に「I・CHI・RO!」「I・CHI・RO!」のコールが巻き起こるからだ。そんなことは他の選手では起き得ない。
また、イニングの合間に守備についたイチローは、センターの選手とキャッチボールをする。センターは前年にフィールディングバイブル賞を獲得した名手、フランクリン・グティエレスだった。イチローはグティエレスと遠投によるキャッチボールをするのだが、グティエレスの送球は多少それがちで、イチローは定位置から少し移動してキャッチすることが多かった。
一方でイチローの送球は正確無比そのものだった。グティエレスはほとんど微動だにせず、キャッチボールの基本ともいえる胸の高さでボールを捕球していた。こういった何気ない守備時のルーティンでも、イチローは一切手を抜くことなく、世界最高レベルの技術を披露しているのだ。マリナーズ戦を現地観戦して一番良かったことは、イチローのキャッチボールを見れたことだと思う。
同年も200本安打を達成し、10年連続となった。いつまでも200本安打が続くと思われていたが、2011年にその記録は途切れる。すでに37歳となっていたイチローは、若手中心としてチームに再建する途上にあることを重々承知の上で、移籍を希望した。
そうしてニューヨーク・ヤンキースとの電撃トレードが実現。移籍直後は打率3割を超える打棒を披露したが、忍び寄る衰えにはさすがのイチローもかなわずにいた。徐々にスタメン落ちすることも増えていた。2015年はマイアミ・マーリンズに移籍。しかし、マーリンズにはクリスチャン・イエリチ、ジャンカルロ・スタントン、マルセル・オズーナとメジャー屈指の外野手トリオが在籍。とはいえ、3人とも何らかの故障で離脱することが多く、イチローは外野のバックアップという立場ながらも出場機会に恵まれていた。
2016年シーズン、イチローは日米通算4257安打を放ち、ピート・ローズの持つMLB通算最多安打記録である4256安打を越えた。さらに同年、MLB通算3000本安打を達成。他にも43歳331日でセンターとして出場したメジャーリーグ史上最高齢の選手となり、日米通算三塁打記録では福本豊の116本を越え、日米通算塁打記録では王貞治の5863塁打を更新。イチローは次々の野球の歴史を塗り替えていく。シーズン代打安打記録にあと1本と迫る27本を記録したものの、こちらは更新ならず。そうして、2017年シーズンをもってマーリンズとの契約が終了。
2010年にシーズン打率3割を越えて以来、イチローの打率はずっと2割台だった。年齢も44歳になる2018年シーズンに向けて、契約するチームは現れないだろうと思われていた。そこへ古巣のマリナーズが声をかけた。レギュラー外野手に怪我人が出たことによる補強という名目であるが、チームの功労者に対する最高の申し出である。
5年ぶりに開幕スタメンに名を連ねるも、かつての打棒を取り戻すことができず。怪我人の復帰に伴い、ロースターに枠を空けるためにイチローはマイナー落ちすると見られていたが、会長付特別補佐としてチームに帯同するが、シーズンに選手として出場しないことを発表。
後に「これだけは誰にもできない経験をしたという自負がある」と語るように、選手ではないが選手としての復帰を目指して、他のチームメイトと一緒に練習に打ち込む日々。相変わらず打撃練習では柵越えを連発するなど、44歳とは思えないパフォーマンスを維持していた。
そうして、2019年シーズン開幕戦。日本で開催されることもあり、またレギュラー外野手に故障があったこともあり、イチローは開幕スタメンが約束されている状況だった。
私は開幕戦のチケットを確保し、もう本当にこれが最後の姿になるかもしれないと思い、現地観戦に行った。
「ライトフィールダー イチロー・スズキ!」のコールに興奮し、慣れ親しんだライトのポジションにつくイチローの姿をまぶたに焼き付けるように見つめていた。守備時のルーティンであるセンターとのキャッチボール。イチローの送球は山なりで、センターのミッチ・ハニガーは定位置から少し移動してキャッチすることが多かった。10年前に見たグティエレスとのキャッチボールと比べると、どう見ても明らかに衰えが見える送球だった。
心の奥底に封じ込めていた「イチローが引退」という言葉が、抑えきれずに自分の頭の中をぐるぐると駆け回り始めた瞬間だった。
そして、2試合に出場するもヒットは無し。
2019年3月21日夜、試合後に会見を開いたイチローは自らの言葉で引退を表明。
数々の大記録を打ち立てた伝説のプレイヤーの最後の現役姿を、この目で見ることができて本当に良かった。
Ichiro forever.
Thanks Ichiro.