通算2338試合に出場し、
通算HR525本は歴代5位の記録です。
通算2122安打を記録し、
通算死球196回は歴代最多、
通算1955三振も歴代最多。
これだけの大打者でありながら、
主要打撃タイトルを獲得することなく現役引退し、
そして覚せい剤所持容疑で逮捕された
清原和博への想いを連ねたいと思います。
まずは、2/3のNewsPicksから。
(わたしのPick)
通算成績は、見事なものだ。
プロ野球史上に残るバッターなのは間違いない。
これだけの成績残して、タイトルが獲れなかったこと、巨人に入団出来ず、巨人で現役引退も出来ず、何か噛み合わない部分が多い人だなとも思った。
ただただ切ない気持ちになります。
清原和博というバッターは、プロ野球の歴史に残る大打者です。
高校時代~プロ入りまで
強豪・PL学園に入学後、
1年生から四番として、5回甲子園出場。
甲子園通算13HRは、
いまだに歴代最多記録を誇ります。
1985年にドラフト1位で西武入団します。
ドラフトの際には、
相思相愛と見られていた巨人が、
清原にとっての同級生にして、
PL学園のエース・桑田真澄を1位指名します。
桑田は大学進学を表明していたにもかかわらず、
巨人がまさかの1位指名。
清原はいきなり、社会の洗礼を受けることになりました。
栄光の西武時代
プロ1年目からレギュラーとして活躍し、
打率.304・HR31本の好成績を残します。
チームも優勝し、日本シリーズに進出、
自身は打率.355(31打数11安打)でシリーズ首位打者および最多安打を記録して、
チームの日本一に貢献し、シリーズ優秀選手賞を獲得しました。
31本は高卒1年目ルーキーの最多ホームラン記録です。
大卒・社会人卒も全て含めても、
最多タイ記録となります。
あの松井秀喜でさえ、
1年目はホームラン11本でした。
高卒プロ1年目から、驚異的な活躍を見せていました。
以降、10年にわたって、
西武ライオンズの黄金時代の主力打者として、
リーグ戦8回優勝、6度の日本一に輝きます。
FAで巨人に入団
転機が訪れたのは、1996年のオフです。
FA権を取得した清原は、
悩みぬいた末に憧れだった巨人に入団します。
しかし、当時のプロ野球は
普通の巨人戦でされ視聴率20%近くを記録するような時代。
鳴り物入りで巨人に迎え入れられた清原を待っていたのは、
並々ならぬ重圧と、各球団からの厳しいマークでした。
徹底的に苦手のインコースを攻め込まれ、
チームの不振も相まって、
結局当時のリーグ記録となる152三振を記録します。
打率.249・HR32本・95打点と、
数字的には悪くない成績にもかかわらず、
大事なところで打っていないなどのイメージあって、
チームの不振の原因を清原に擦り付けるような形で非難を浴びることになります。
そこからは、
プレッシャーに応えるために、バッティングフォームを大幅に改良したり、
肉体改造と称して過度とも捉えられかねないウェイトトレーニングによって、
格闘家のような肉体へと変貌を遂げます。
それが原因かは分かりませんが、
以後引退までずっと下半身の故障に悩まされ続けます。
このころから、わたしはプロ野球をよく見るようになり、
成行きもあって、巨人ファンとなります。
わたしの記憶に鮮明に残っているのが、
2002年の日本シリーズです。
このシーズンはずっと故障に悩まされ、
リーグ戦は55試合しか出場できませんでした。
そして、日本シリーズは巨人に移籍後初めて
古巣の西武との一戦になります。
日本シリーズ1戦目、
西武の先発は松坂大輔です。
松坂もこのシーズンは故障に悩まされましたが、
エースとして1戦目のマウンドを託されました。
巨人が2-0と先制した3回のウラに、
ランナーを一人置いて、打席には清原を迎えます。
元西武のスター選手・清原と、現在の西武を担う球界のスター投手・松坂の対決です。
高めに浮いた球を一閃振りぬくと、
打った瞬間それと分かる打球が左中間スタンドに飛び込みました。
この日の巨人の先発は安定感抜群の上原浩治です。
3回ウラで4点リードは、
ほとんど試合を決定づける一撃となり、
それ以上にエースの松坂が巨人打線に全く通用しなかったという
精神的なダメージが大きかったように思えます。
そのまま、巨人は西武を全く寄せ付けず、
シリーズ4連勝で日本一となります。
あの、左中間への打球は、
今も思い返して鳥肌立つレベルです。
徐々に居場所を失う
当時のスターは、
松井秀喜・高橋由伸、そして清原和博でした。
清原はメディアから叩かれることも多いですが、
巨人ファンからの声援はとてつもないものがありました。
2000年頃から、
清原は外国人選手との併用が多くなります。
必然的にベンチスタートが多くなるのですが、
ここぞという場面で代打として登場します。
その時の声援の大きさと言ったらないです、
尋常ではない盛り上がりを見せます。
清原への声援は本当にすさまじく、
画面越しないし、球場でそのすさまじさを感じたのは、
松井秀喜、高橋由伸、そして清原和博だけです。
坂本勇人、阿部慎之助、長野久義にそこまでのスター性は残念ながらありません。
矢野謙次が代打で出る時が、
そこに匹敵するかなということがあるくらいでした。
ファンは清原をずっと愛していました。
声援の量が物語っています。
メディアや、ファンのプレッシャーに耐えながら、
弱音を吐くことなく、打撃フォーム改造・肉体改造と、
弛まぬ努力を積み重ねていることを、ファンは知っていました。
巨人が金に物を言わせて、
他球団の4番をかっさらうたびに、
清原とのポジション争いが発生し、
常に一流の打者と比較され生きていることの辛さも、
ファンは理解していました。
だからこそ、
巨人ファンは清原に最後まで声援を送り続けたのです。
オリックスに移籍、そして引退
当時の巨人の監督である堀内恒夫との確執もあり、
追われるように巨人から放出されました。
清原の地元である関西を本拠地とする
オリックスで、清原は輝きを取り戻します。
2006年シーズンは、
満塁サヨナラホームランを含む、2本のサヨナラアーチを放ちました。
シーズン11号となる、
2本目のサヨナラホームランによって、
通算サヨナラホームラン数を12本とし、
野村克也の持つ通算サヨナラホームラン数の日本記録を塗り替えました。
しかし、これが現役最後の本塁打となってしまうとは思いませんでした。
翌シーズンは、
再び怪我に悩まされます。
2007年シーズンは、膝の怪我のため、
プロ入り初の1軍出場なしに終わり、
入団1年目から21年続いた連続二桁本塁打の日本記録も途切れます。
長く辛い孤独なリハビリ生活。
現役の晩年には、自分の弱さを隠すかのように、
金髪にしてみたり、ピアスをしたり、
白い無精ひげを生やしている姿を見て、
痛々しい想いにかられたことを覚えております。
そして、2008年シーズンは、
1本のホームランを打つことなく現役引退しました。
そして今日に至る
引退後も、メディアから叩かれ続け、
芸能界から干され、今日に至ります。
清原が全盛期から徐々に成績を落としながら、
最後は死にたいくらい憧れた巨人からも見放され、
オリックスで引退を迎える日まで、
ずっと見続けた一ファンとして、
今回の出来事はただただ切ないという想いです。
薬物は明らかな犯罪で、
犯罪者を許容するほど甘い世の中ではありません。
許されることではありませんが、
これから罪を償って、
願わくば、再び清原が日の目を浴びる日が来ることを待ち望みます。
かと言って何もできることがありませんが、
一人のプロ野球ファンとして、
一人の清原ファンとして、
清原への率直な想いを述べさせてただきました。